【坂東玉三郎】妻を持たず、養子から歌舞伎女形を極めた役者の素顔とは
五代目坂東玉三郎は、現在の歌舞伎女形の頂点に立つ役者として、日本人ならその名を知らない人はいないのではないでしょうか。
男が女の役を演じる女形という特別な立場で、初舞台から60年以上も歌舞伎の舞台に立ち続ける坂東玉三郎ですが、今だに妻や家庭を持つこともなく、まさに人生すべてを歌舞伎に捧げているかのように思えるほどです。
そんな玉三郎の自宅での素顔や、歌舞伎以外の生活はどのようなものなのでしょうか?
ここでは、歌舞伎女形の坂東玉三郎のこれまでのプロフィールや、なぜ妻を持たないのかなど、その知られざる素顔について迫ってみたいと思います。
目 次
坂東玉三郎はなぜ現在まで結婚せず妻を持たないのか?
五代目坂東玉三郎は、「その美しさは奇跡」とも言われ、現在の歌舞伎女形として並ぶもののない最高峰に位置する存在です。
立女形として初の人間国宝にも選ばれ、日本国内だけでなく海外からも高い評価を受ける坂東玉三郎ですが、70歳になった今でも結婚し妻を持ったという話は聞こえてきません。
歌舞伎役者はそれぞれの家を大切にし、そこに嫁ぐ妻は跡取りの男の子を生むことを期待されるものです。もし男の子が生まれなければ養子をもらって家を継がせるということも珍しくないのですが、玉三郎のように結婚自体をしないというのは珍しいと言えます。
もしかすると、玉三郎自身も梨園(歌舞伎界)の家の生まれではなく、養子として歌舞伎の家に入ったので、実の子供に家を継がせるということにあまり意味を感じていないのかもしれません。
もしくは、歌舞伎女形の芸にその生涯をかけて取り組んできたので、結婚して妻を持つこと自体に関心を持たなかったのかもしれません。
当人の口からはっきりと語られないことには本当のことはわかりませんが、妻を持たないということによって、男が女を演じる女形役者「坂東玉三郎」という存在を、更に不思議で魅惑的なものにしているように感じます。
実は過去に結婚の約束をしたとの話もありました。十八代目中村勘三郎の姉・波乃久里子が、テレビ番組「徹子の部屋」に出演したときに、坂東玉三郎と60過ぎてもお互い独身だったら結婚しようと約束したことがあると言ったそうです。しかし、二人共70歳を超えた現在でも未だに独身です。どこまで本気だったのかはわかりませんが、幻の約束となってしまったようですね。
坂東玉三郎の華麗なるプロフィール
坂東玉三郎は歌舞伎の家に生まれたわけではありませんが、現在の歌舞伎女形の頂点としての地位をどのように築いてきたのでしょうか?
ここでは玉三郎のたどってきた半生を紹介し、その華やかな人生の影でどのような努力や苦労があったのかを紹介します。
生年月日 |
---|
昭和25年(1950年)4月25日 |
本名 |
楡原 伸一 守田 伸一(改名後) |
屋号 |
大和屋 |
家紋(定紋) |
花勝見 |
初舞台 |
昭和32年(1957年)12月 「菅原伝授手習鑑・寺子屋」小太郎役 |
襲名歴 |
昭和32年(1957年)12月 坂東喜の字 昭和39年(1964年)6月 坂東玉三郎(五代目) |
当たり役 |
「助六由縁江戸桜」 揚巻 「籠釣瓶花街酔醒」 八ツ橋 「阿古屋」 遊君阿古屋 「京鹿子娘道成寺」 白拍子花子 「鷺娘」 「伽羅先代萩」 政岡 「妹背山女庭訓」 お三輪 「将門」 滝夜叉姫 |
病弱だった少年時代
昭和25年(1950年)、東京都内の料亭の五男として生まれた玉三郎は、小児麻痺後遺症のため小さい頃から体が弱く、病気ばかりしている子供でした。
5歳のときに初めて歌舞伎を見に連れて行かれ、そのとき当時最高の女形と言われた六代目中村歌右衛門の舞台の華やかさに夢中になります。
体を強くするのにいいのではということで、幼稚園には行かずに日本舞踊を習うことになり、歌舞伎役者・十四代目守田勘彌の妻で舞踊家の藤間勘紫惠の元に入門します。
踊りが楽しくてしょうがなかった玉三郎は何時間でも踊っていられたそうです。その才能を見込まれて守田勘彌の弟子になり、部屋子(師匠のもとに預けられて修行する子役)となりました。
そして昭和32年(1957年)7歳のときに、渋谷の東横ホールの公演で坂東喜の字の名前でついに初舞台を踏みます。役は「寺子屋」の小太郎という、子役としては大きな役です。
歌舞伎の家の生まれではなかった玉三郎ですが、体が弱かったことが、かえってその才能を見いだされるきっかけになり、歌舞伎役者としての道を開いたのです。
守田勘弥の養子となる
初舞台を踏んだ後も、師匠である守田勘彌の舞台で子役として出演し、昭和39年(1964年)、14歳のときに五代目坂東玉三郎を襲名します。それと同時に守田勘彌の藝養子(芸を継がせるための養子・法的な養子ではない)となり、その後も着実に女形としての実績を積み上げていきます。
歌舞伎十八番の一つ「鳴神」で主演の十二代目市川團十郎の相手役・雲の絶間姫を演じたのが高い評価を受け、二人は「海老玉コンビ」と呼ばれて人気になりました。また、「桜姫東文章」の桜姫を演じたときの共演・十五代目片岡仁左衛門(当時・片岡孝夫)とのコンビは「孝玉コンビ」と呼ばれ、こちらも大人気になりました。
昭和50年(1975年)には法的にも守田勘彌の養子となり、人気だけでなく名門歌舞伎役者としての地位も着実に歩んで行くと思われましたが、同年に養父であり師匠の守田勘彌が亡くなります。
そして、当時の玉三郎には人気役者となったことによる苦悩もすでに始まっていました。
女形人気役者としての苦悩
玉三郎の身長は当時173cmでしたが、これは女形の身長としては高すぎると言われていました。始めのころは舞台に出るだけで、他の女形より一段背の高い玉三郎を見た観客からは笑いが漏れたそうです。
そこで玉三郎はどうすれば背が小さく見えるかを考え、背の高い女形役者の写真を見て熱心に研究します。その結果、肩をすぼめて膝をわずかに曲げることなどで、背を小さく見せることに成功しますが、その姿勢は体に大きな負担を与えることになります。
人気役者として食事を摂る暇もないほど休み無く舞台に出続けていたことで、あるとき公演が終わった後、「心が折れた」状態、すなわち「鬱(うつ)」になってしまいました。
気持ちが暗くなり、食べ物も喉を通らないようになって、立っているだけでも辛いと感じるほどひどい状態だったそうですが、そのときに病弱だった子供時代を思い出し、「踊れなくなるときが来る」と考えるようになります。
舞台に立てなくなったときのことを考えて、30歳を過ぎてから、歌舞伎以外のものに目を向けるようになり、新劇の演出や映画監督などにも進出していきます。
それぞれの分野でも高い評価を得ていきますが、やはり幼いときから憧れてきた踊りに対する情熱だけはどうしても押さえられませんでした。
歌舞伎の枠を超えて活躍
「好きな踊りを踊り続けるためにどうするか?」
この答えとして、一日の舞台が終わるとまっすぐ自宅に戻り、専属のトレーナーに筋肉をほぐしてもらってからすぐに横になる。声の調子を整えるためには友人との電話もしないなど、目の前の舞台を全力でやり遂げることだけを考えて歌舞伎に打ち込んでいくことになります。
海外でも数多くの歌舞伎公演をこなし、世界的演奏家のヨーヨー・マと共演した舞踊や、バレエ振付家ベジャールとの共演で「リヤ王~コーデリヤの死」を演じるなど海外にもその名を知られていくことになりますが、同時に熊本県の八千代座など古い劇場での舞踊や、和太鼓集団「鼓童」の演出など、日本国内での活動も広げていきます。
歌舞伎のために後進の指導に尽力
玉三郎が小さいときからあこがれ、女帝と呼ばれて昭和の歌舞伎女形の頂点に君臨していた六代目中村歌右衛門が、1996年を最後に舞台から離れると、玉三郎が女形の最高峰として歌舞伎界を牽引することになります。
歌右衛門が女帝として君臨していた時代は、他の女形は歌右衛門の当たり役をなかなか演じられないということがありましたが、玉三郎はむしろ積極的に、若手役者に出番を与え自分の演目を伝授しようとしています。
例えば、「阿古屋」の遊君阿古屋、「伽羅先代萩」の政岡、「籠釣瓶花街酔」の八ツ橋、「本朝廿四孝」の八重垣姫などは、歌右衛門の当たり役であったために、他の役者が演じにくくなって、いわば歌右衛門の寡占状態が続いていました。
しかし、歌右衛門のあとに女形トップと目される玉三郎は、同じ役を得意としても決して独占的な立場をとることはなく、自分が伝えられるうちに若手に伝授しようとしています。
「阿古屋」に関しては、難しい役ということもあって、戦後は歌右衛門が演じた後は玉三郎しか演じないという状態が続いていましたが、2018年には玉三郎指導のもとに、中村梅枝、中村児太郎という二人の若手女形が、玉三郎を含めた三人で交互に「阿古屋」を演じています。
他にも「二人道成寺」の白拍子花子を尾上菊之助と演じたり、「伽羅先代萩」の政岡を中村七之助に指導したりと、女形の大役を若手に指導することで、自分が受け継いで発展させた女形の芸を若い世代に受け継ぐことが、玉三郎の新たな使命となっているようです。
また、自分自身に芸を伝える子供がいないことも、若手の指導に熱心になる一つの理由かもしれませんね。
中村七之助は「伽羅先代萩」の政岡の演技の指導を受けたときの玉三郎の舞台に対するこだわりの逸話を明かしています。それは、かつて玉三郎が政岡を演じていたとき、使用される茶道具が当時の時代のものと違うと観客に指摘されたので、自腹で当時使われていた茶道具を購入して舞台で使うようになったそうです。七之助はその値段を聞いて、あまりの高さに自分が使う時は手が震えたとか。
現代最高の歌舞伎女形「坂東玉三郎」
現代の歌舞伎界で最高の女形と言っていい坂東玉三郎ですが、歌舞伎役者以外での活躍も目立ちます。過去の受賞歴や様々な活動内容について紹介します。
立女形の人間国宝
若いときから国内外の数々の受賞歴を経て、2012年には歌舞伎の立女形としては初めて人間国宝に指定され、その後も紫綬褒章(2014年)や文化功労者(2019年)、日本芸術会員(2019)に選ばれるなどの錚々たる経歴を以下に紹介します。
- 1970年 芸術選奨新人賞
- 1971年 第8回ゴールデン・アロー賞演劇賞
- 1978年 第15回ゴールデン・アロー賞演劇賞
- 1981年 松尾芸能賞優秀賞
- 1985年 第3回都民文化栄誉章
- 1991年 フランス芸術文化勲章シュバリエ章
- 1992年 泉鏡花文学賞特別賞
- 1997年 モンブラン国際文化賞
- 2009年 第57回菊池寛賞
- 2011年 第27回京都賞思想・芸術部門
- 2013年 フランス芸術文化勲章コマンドゥール章
- 2014年 紫綬褒章
- 2016年 日本芸術院賞・恩賜賞
- 2018年 松尾芸能賞大賞
- 2019年 高松宮殿下記念世界文化賞
- 2019年 文化功労者
- 2019年 日本藝術院会員
バレエダンサー・歌手としても活躍
若いときからバレエのレッスンを受けており、実力はプロのバレリーナと言ってもいいほどのものを持っています。1988年にはフランスのバレエ振付師であるモーリス・ベジャールの指導で東京文化会館でバレエを演じ、1994年には再びベジャールとともにバレエで共演しています。
また、2011年から発声を勉強したのをきっかけにコンサートでその美声を披露しています。2019年には「坂東玉三郎 世界のうた」というタイトルで全国4ヵ所でコンサートを開催し、シャンソンやミュージカル、アメリカの曲、日本の井上陽水の歌などで見に来たファンを魅了しました。
そのときの映像がこちらになります。
優雅な自宅生活を紹介
歌舞伎の舞台が終わるとまっすぐ自宅に戻って翌日の舞台に備える玉三郎ですが、近年は年齢的な体力の衰えなどから公演を減らしています。2ヶ月休みになるときなどは、素潜りのダイビングを楽しんでいるそうです。
2020年6月現在、歌舞伎の公演は新型コロナウイルス感染防止のために休演を余儀なくされていますが、自宅でも踊りの稽古を毎日やりながら、趣味の陶芸や発声の練習をして過ごしているそうです。また、劇作家と歌舞伎の新作づくりにも取り組んでおり、歌舞伎公演の再開時には新しい作品を披露できることを楽しみにしながら過ごしているそうです。
玉三郎の自粛期間の過ごし方ビデオメッセージはこちら。
2020年8月の歌舞伎座での公演から歌舞伎が再開され、玉三郎は9月の公演に登場することになりましたが、それに先駆けて、8月30日(日)から放送再開のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」に、玉三郎が出演しました。
美しい帝・正親町天皇の役を演じ、大河ドラマ初出演になる玉三郎の演技が注目を集めました。
坂東玉三郎の歌舞伎公演情報
現代の歌舞伎女形の最高峰・坂東玉三郎の公演情報を以下に紹介します。
2024年9月 歌舞伎座
2024年9月の歌舞伎座「秀山祭九月大歌舞伎」に坂東玉三郎が出演します。
坂東玉三郎が出演するDVD
坂東玉三郎出演の歌舞伎DVDも販売されています。自宅でいつでも玉三郎の舞踊を楽しみたい方にはオススメです。
まとめ:歌舞伎女形のトップは坂東玉三郎を見よう
五代目坂東玉三郎は、歌舞伎女形の最高峰として活躍する役者ですが、妻や家族を持つこともなく自分の芸のみに打ち込む姿は、その魅力をさらに引き立てています。
しかし、今の地位を築くまでには、休む間もなく舞台に追われて心が折れるほどの苦悩があり、踊れなくなるかもしれないという思いを克服するために、一日一日の舞台に全力を尽くし、たゆまぬ努力を重ねてきました。
歌舞伎だけでなく、バレエやミュージカルなどでも世界的に評価され、映画監督やコンサートで歌唱を披露するなど、年を経るほど活躍の舞台はますます広がっています。
すでに70歳を超えた玉三郎の舞台を見られる機会は少なくなってきましたが、その芸を受け継ぐ若手女形の育成にも力を注いでいます。
坂東玉三郎だけでなく、若手女形役者に受け継がれたその芸は、これからも歌舞伎の舞台を華やかに彩っていくことでしょう。