片岡仁左衛門の家系図から上方歌舞伎の危機を救った名門一族を紹介!
片岡仁左衛門家は京都・大阪を中心とした上方歌舞伎の名門であり、歌舞伎の歴史でも最も古くからある家系の一つです。
当代の十五代目片岡仁左衛門は現代最高の立役とも言われる名優です。家系図の中には、歌舞伎脇役で人間国宝に認定された兄・片岡秀太郎(※2021/5/23 死去)や、テレビでも活躍する片岡愛之助、仁左衛門の息子・片岡孝太郎、孫・片岡千之助と、まさに名門と呼ばれるに相応しい顔ぶれです。
この記事では上方歌舞伎の名門・片岡仁左衛門家の家系図から、歴代の仁左衛門の歴史や歌舞伎界に残した功績と、現在活躍する役者の経歴などについて紹介していきます。
目 次
片岡仁左衛門の家系図
片岡仁左衛門家の家系図は以下のようになります。屋号の「松嶋屋」は七代目仁左衛門から始まっていますが、その由来は不明です。定紋は「七つ割丸に二引」で替紋は「追いかけ五枚銀杏」です。
片岡仁左衛門家は、元禄時代に京都や大阪を中心とした上方歌舞伎の伝統を受け継ぐ名門であり、現在まで続く歌舞伎の家系ではもっとも古い家系の一つということになります。
ただし、三代目から六代目までは名乗る者がいない預かり名跡となっていたり、九代目・十四代目は死後に追贈されたものです。現代に伝わっているのは八代目仁左衛門からの系譜となっています。
十一代目仁左衛門によって、従来の演目に新たな解釈を加えた12演目が「片岡十二集」としてお家芸に制定されました。
<片岡十二集>
- 馬切り
- 石田の局
- 赤垣源蔵
- 菅公
- 清玄庵室
- 吃又
- 近頃河原達引
- 鰻谷
- 血判取
- 大蔵卿
- 和気清麿
- 紙子仕立両面鏡
当代きっての名優・十五代目片岡仁左衛門
歌舞伎役者・十五代目片岡仁左衛門は、現在活躍する歌舞伎役者中でも最高の立役と名高い名優です。70歳を超えた今でも歌舞伎の舞台に立つ姿は、観客を感動させるだけでなく他の役者たちの生きた手本となっています。そんな十五代目片岡仁左衛門の輝かしい経歴について紹介します。
生年月日 |
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昭和19年(1944年)3月14日 |
本名 |
片岡 孝夫 |
屋号 |
松嶋屋 |
家紋(定紋) |
七つ割丸に二引 |
初舞台 |
昭和24年(1949年)9月 「夏祭浪花鑑」市松役 本名・片岡孝夫 |
襲名歴 |
平成10年(1998年)1-2月 片岡仁左衛門(十五代目) |
主な受賞歴 |
1983年 真山青果賞 1985年 都民文化栄誉賞 1986年 芸術祭賞 1988年 日本芸術院賞 1996年 読売演劇大賞、松尾芸能大賞 1999年 毎日芸術賞 2006年 紫綬褒章、日本芸術会員 2015年 人間国宝認定 2018年 文化功労者 |
当たり役 |
「女殺油地獄」 河内屋与兵衛 「廓文章」 藤屋伊左衛門 「菅原伝授手習鑑」 菅丞相 「与話情浮名横櫛」 与三郎 「お染めの七役」 喜兵衛 「伊賀越道中双六」 呉服屋十兵衛 「恋飛脚大和往来 」 忠兵衛 「伊勢音頭恋寝刃」 福岡貢 |
十五代目片岡仁左衛門は、昭和19年(1944年)十三代目仁左衛門の三男・孝夫として大阪で生まれます。家族全員芝居が大好きで、長男・秀公(現・片岡我當)、次男・彦人(二代目・片岡秀太郎)が歌舞伎役者としての道へ進んだように、孝夫も役者への道を歩んでいきます。
昭和24年(1949年)に本名・片岡孝夫で初舞台を踏むと、2年後には父・十三代目片岡仁左衛門の襲名興行で、当時は東京歌舞伎座以上の設備と座席数を誇った大阪歌舞伎座(現在は廃座)の舞台に上がり、口上も勤めます。
しかし、その後は関西歌舞伎は衰退し、孝夫も歌舞伎役者としての仕事が減っていくことに不安を感じ、役者をやめることも考えます。ところが、他の歌舞伎の家出身でない役者たちが自主公演をしながら関西の歌舞伎を残そうと懸命になっているのを見て、「仁左衛門を父に持つ自分が逃げ出すわけにはいかない」と歌舞伎役者を続ける覚悟を決めるのです。
昭和37年(1962年)に父・十三代目仁左衛門が私財を投じて自主公演「仁左衛門歌舞伎」を立ち上げ大成功を収めます。その舞台で20歳の孝夫が演じた「女殺油地獄」の与兵衛が大評判となり、後に「この役に出なかったら今の自分はなかったかもしれない」と言うほどの当たり役となりました。
その後は東京に活動の舞台を移し、「義賢最期」の復活や、「忠臣蔵」の大星由良之助などで大きな評価を受けますが、新橋演舞場での「花形歌舞伎」で女形・坂東玉三郎とのコンビは「孝玉コンビ」と呼ばれ、ポスターが盗まれるほどの人気が出て大ブームとなりました。
長らく本名の「片岡孝夫」で舞台を勤め、テレビや映画でも活躍しますが、平成4年(1992年)に大病を患い、一年にも及ぶ闘病生活から復帰した後、平成10年(1998年)に、晴れて十五代目片岡仁左衛門を襲名します。
十五代目仁左衛門の芸風は、すらりとした長身で整った美貌からの流麗な台詞回しは実に華があり、高い品格と匂い立つような艶のある演技は、年とともに風格と魅力が増しています。上方歌舞伎出身らしい和事の優美な若旦那だけでなく、江戸歌舞伎の粋な色男や骨太な立役など、すべてが当たり役と言っていいほどです。
当たり役として有名なのは「女殺油地獄」の与兵衛の他にも、「与話情浮名横櫛」の与三郎、「廓文章」の伊左衛門などがありますが、父・十三代目仁左衛門から受け継いだ、「菅原伝授手習鑑」の菅丞相は、魂で演じる表現力の深さが絶賛されています。
平成25年(2013年)11月に右肩の痛みが腱板断裂と診断され手術することになり、役者生命も危ぶまれましたが、7ヶ月後の歌舞伎座公演「お祭り」で無事に復帰を果たします。
平成27年(2015年)には歌舞伎立役として人間国宝に認定され、上方歌舞伎にも江戸歌舞伎にも通じる十五代目片岡仁左衛門は、名実ともに現在の歌舞伎界のトップに立つ役者の一人となりました。
息子の片岡孝太郎、孫の片岡千之助も歌舞伎役者として活躍しており、松嶋屋の歌舞伎の伝統はこれからも受け継がれながら、輝かしい未来へと続いていくことでしょう。
歴代の仁左衛門とは?
歴代の片岡仁左衛門の中から、特に近代において活躍した役者や特筆すべき役者を紹介します。
気性の激しい天才型・十一代目片岡仁左衛門
八代目片岡仁左衛門の四男として安政5年(1858年)に江戸で生まれた十一代目片岡仁左衛門は、幼くして父を亡くし、兄(十代目仁左衛門)とともに苦労して育ちます。兄の十代目仁左衛門亡き後は片岡仁左衛門家を背負って立つことになり、49歳の年に十一代目仁左衛門を襲名します。
個性が強く気性も激しい性格だったために、大阪では当時人気絶頂だった初代中村雁治郎と度々衝突します。そのこともあって東京へと活躍の場を移しますが、そこでは劇聖と呼ばれた九代目市川團十郎と衝突するなど多くの逸話を残しています。
しかし、九代目團十郎亡き後は東京の歌舞伎界を支えて活躍し、若手歌舞伎役者の育成のために片岡少年俳優養成所を設立するなど、歌舞伎界のために大きく貢献します。
自らの得意芸を片岡仁左衛門家のお家芸「片岡十二集」として選定したのも十一代目仁左衛門です。
悲運の役者・十二代目片岡仁左衛門
明治15年(1882年)に八代目仁左衛門の娘の子として生まれた男の子は、後に十代目仁左衛門の養子になり、昭和11年(1936年)に十二代目片岡仁左衛門を襲名します。
女形を得意として上方歌舞伎で活躍しますが、東京での女形が不足していたことから東京に呼ばれることになり、立女形(女形のトップ)の地位を得ることになりました。
ところが、昭和21年(1946年)3月16日、自宅で夫人と四男そして女中二人と就寝中に、当時住み込みで座付見習作家として働いていた門人によって、十二代目仁左衛門一家五人が惨殺されるという事件が起きてしまい、63歳でその生涯を終えることになりました。
衝撃的な事件ですが、当時は終戦後間もないときで食料事情が悪かったこともあり、ろくな食事を与えられていなかったことや、仁左衛門から「座付き作家としてセンスがない」などと罵られたことなどが犯行の動機ではないかと言われています。
悲劇的な最期を遂げた十二代目仁左衛門ですが、生前には長らく上演されていなかった「義賢最期」を復活させ、これが当代の十五代目仁左衛門の当たり役として今に受けつがれています。
上方歌舞伎滅亡の危機を救った十三代目片岡仁左衛門
明治36年(1903年)に東京で生まれた十三代目片岡仁左衛門は、29歳のときに始まる「青年歌舞伎」という若手歌舞伎役者公演の座頭になります。
そこでは父・十一代目仁左衛門からの教えもあり、初めて演じる役のために専門家を招いて、演奏と演技や演出の研究会を開いて役作りに徹します。また、古典歌舞伎の役の場合は、父親を始め、七代目松本幸四郎、七代目市川中車、十五代目市村羽左衛門、二代目実川延若などの、その役の第一人者である先輩役者に型を教わっています。
生まれたのは東京ですが、昭和14年(1939年)に上方歌舞伎へ移籍し、昭和26年(1951年)に、十三代目片岡仁左衛門を襲名します。
当時の東京歌舞伎が隆盛だったのに対して、上方歌舞伎は人気役者が映画界へ流れたり、劇場の閉鎖が相次ぐなど衰退の一途を辿っていました。
これに危機感を抱いた十三代目仁左衛門は、私財を投じて自主公演「仁左衛門歌舞伎」を立ち上げます。
周りからは「無謀だ」と言われながらも、「役者が舞台に立てないことは、絵描きが絵筆を取られたと同じこと。役者には舞台が必要なんや」と、周囲の反対を押し切って始めたこの舞台(全五回)は大成功を収め、関西歌舞伎は息を吹き返すのです。
晩年になるほど芸に深みが増し、昭和47年(1972年)には人間国宝に認定されます。特に「菅原伝授手習鑑」の菅丞相は、その品格の高さに絶品を超えた「神品」と称されるほど絶賛されました。
晩年には緑内障で失明してしまいますが、それでも舞台に立ち続け、90歳で人生の幕を閉じています。
現在活躍する松嶋屋の歌舞伎俳優
上方歌舞伎の名門・松嶋屋で現在活躍する歌舞伎役者を紹介します。
片岡秀太郎〜人間国宝の名脇役
二代目片岡秀太郎は、当代の十五代目仁左衛門の3歳年上の兄になります。
昭和31年(1956年)3月、大阪歌舞伎座で行われた「河内山」の浪路役で二代目片岡秀太郎を襲名し、上方の柔らかみのある女形の演技で活躍します。
父である十三代目仁左衛門のもとで踊りや、義太夫、鳴物などの歌舞伎役者として必要な要素を叩き込まれ、数々の古典の立女形を演じてきました。
「封印切」のおえんなどの花車方(茶屋の女房)の役や、時代物の老女役などを演じることが多く、役の性根と格を演じ分けることに定評があります。
弟・十五代目仁左衛門とちがって、大阪から住居を移さず上方の歌舞伎の発展に尽力し、「関西歌舞伎中之芝居」という上方狂言を復活させる公演を続け、平成9年(1997年)に「上方歌舞伎塾」を開き、「平成若衆歌舞伎」という若手の公演を立ち上げるなど、指導者として次代の役者育成にも貢献しています。
令和元年(2019年)に歌舞伎脇役として人間国宝に認定され、片岡仁左衛門の家系では、父・十三代目仁左衛門、弟・十五代目仁左衛門に続いて3人目となりました。
時代物の風格のある老女を演じることができる貴重な役者でしたが、令和3年5月23日に慢性閉塞性肺疾患のため79歳で亡くなりました。
片岡愛之助〜一般家庭から名門一家へ
六代目片岡愛之助は昭和47年(1972年)に一般家庭の子として生まれますが、昭和56年(1981年)に十三代目仁左衛門の部屋子となり、京都南座で上演された「勧進帳」の太刀持で片岡千代丸を名乗って初舞台を踏みます。
平成4年(1992年)には片岡秀太郎の養子となって、大阪・中座「勧進帳」の駿河次郎ほかで六代目片岡愛之助を襲名します。
生まれついての上方役者として、端正な顔立ちから語り口も爽やかで、個性的なキャラクターとサービス精神も豊富で多くのファンの心を掴みます。新作歌舞伎「ナルト」に出演するなど新しいことにも積極的で、テレビや映画出演も数多くあります。
平成28年(2016年)に女優の藤原紀香と結婚したことも大きな話題になりましたが、これからの歌舞伎界を担う一人として注目されています。
片岡孝太郎〜仁左衛門の頼れる息子
十五代目仁左衛門の長男として昭和43年(1968年)に生まれた片岡康雄(本名)は、昭和48年(1973年)7月の歌舞伎座「夏祭」の市松役で初代片岡孝太郎を名乗って初舞台を踏みます。
父・十五代目仁左衛門とは違って女形としての活躍が多く、「油殺女地獄」では父を相手にお吉を熱演して当たり役とし、歳と共に立女形の役を多く演じるようになり、中堅世代の女形として貴重な存在となっています。
近年は映画出演なども多くなり、ハリウッド映画「終戦のエンペラー」では昭和天皇役を演じています。
片岡千之助〜甘いルックスの仁左衛門の孫
平成12年(2000年)に片岡孝太郎の長男として生まれた片岡正博(本名)は、平成15年(2003年)7月の大阪松竹座「男女道成寺」の所化(坊主)役で初お目見得を果たします。
初舞台は平成16年(2004年)11月の歌舞伎座「松栄祝嶋台」お祭りの若鳶千吉役で、このとき初代片岡千之助を襲名し、可愛らしく愛嬌のある演技ですぐに人気者になります。
平成23年(2011年)11歳のとき、本人の強い希望で祖父の十五代目仁左衛門と二人で「連獅子」を踊ります。父子共演は多い演目ですが、祖父と孫では戦後初の共演という珍しい出来事となりました。
令和2年(2020年)2月には歌舞伎座「十三世片岡仁左衛門二十七回忌追善狂言」の「菅原伝授手習鑑」で祖父・仁左衛門が菅丞相、父・孝太郎が八重と立田の前を演じるのを相手に、刈谷姫を演じています。
学業があるので舞台に立つことはあまり多くないですが、将来は松嶋屋の看板を担う若手として期待されます。
片岡仁左衛門の歌舞伎を見よう
片岡仁左衛門や片岡孝太郎、片岡千之助が出演する公演情報をお知らせします。
2024年12月 京都南座
2024年12月の京都南座「吉例顔見世興行」に片岡仁左衛門、片岡孝太郎が出演します。
2025年1月 歌舞伎公演
2025年1月の大阪松竹座「片岡仁左衛門 坂東玉三郎 初春特別公演」に片岡仁左衛門、歌舞伎座「壽初春大歌舞伎」に片岡孝太郎が出演します。
片岡仁左衛門のDVD
十五代目片岡仁左衛門の舞台を見る機会も少なくなってきていますが、DVDがあればその熟練の舞台をいつでも見ることができますよ。
十五代目仁左衛門が20歳で当たり役とした「女殺油地獄」の与兵衛は、2010年の歌舞伎座さよなら公演が一世一代の舞台となったので、今後は見る機会は無くなってしまいました。このDVDには2009年6月・歌舞伎座で与兵衛を演じる仁左衛門が収録されています。
片岡仁左衛門の芸と心 ~密着1年! 歌舞伎に生きる十五代目の信念と情熱~ [DVD]
2012年3月にテレビで放送された歌舞伎役者・片岡仁左衛門のドキュメンタリー番組のDVDです。テレビ未公開映像も入った貴重な映像が満載で、舞台、楽屋、稽古風景、そして孫の千之助との共演の舞台裏なども見られます。
まとめ:上方歌舞伎の名門・片岡仁左衛門家
片岡仁左衛門家の家系図と、歴代の仁左衛門や現在活躍する松嶋屋の歌舞伎役者を紹介してきました。
現代最高の立役・十五代目片岡仁左衛門の高い品格のある演技は並ぶものがないほどであり、その伝統は父の十三代目仁左衛門はじめ歴代の仁左衛門の芸と歌舞伎の伝統を受け継いできた中で作られたものです。
仁左衛門の松嶋屋には、兄で人間国宝の片岡秀太郎、テレビでも人気の片岡愛之助、仁左衛門の息子で中堅女形として活躍する片岡孝太郎、孫でこれからの活躍が期待される片岡千之助など様々な顔ぶれが揃います。
上方歌舞伎を復興させた片岡仁左衛門家が、これからの歌舞伎界をさらに発展させることにも大きな期待がかけられますね。