歌舞伎の歴史は苦難の連続!休演や存続の危機を乗り越えた理由を紹介

歌舞伎の歴史は苦難の連続!休演や存続の危機を乗り越えた理由を紹介

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歌舞伎の歴史を見てみると、今でこそ日本が世界に誇る伝統芸能となっていますが、実際は何度も存続の危機に陥ったり、様々な問題が起こったりしています。

令和2年(2020年)2月からは、世界的な新型コロナウイルスの感染拡大にともない、歌舞伎の各劇場でも公演中止を余儀なくされています。

多くの歌舞伎ファンにとっては、公演が見られないのは残念であり、これからの歌舞伎はどうなるのか不安なところだと思いますが、歴史的に見ると歌舞伎は様々な危機に直面しながらも、それをなんとか乗り越えて現在まで400年以上続いてきているのです。

ここでは歌舞伎が辿ってきた苦難の歴史と、存続の危機をいかにして乗り越えてきたのかを紹介します。

女歌舞伎が最初の危機

出雲の阿国像

歌舞伎の始まりは、慶長8年(1603年)に京都で「出雲の阿国」という女性が「かぶき踊り」を踊ったということだとされています。つまり、歌舞伎の創始者は「女性」だったのです。

現代では正式な「歌舞伎」の舞台には女性は立てないことになっていますが、草創期には女性の歌舞伎役者も活躍していました。その女性が踊っていたことで最初の危機が訪れるのです。

女歌舞伎が江戸幕府から禁止される!

出雲の阿国から始まったとされるかぶき踊りは、当時の庶民の間で大変な人気になり、またたくまに同じような踊りをする団体が数多く現れました。現代でも何かブームが起こるとそれを真似してお金儲けをしようとする人たちがたくさん現れますが、そういうところは今も昔も変わりませんね。

中でも人気があったのは、遊郭の経営者たちが自分が抱える遊女達を使った「遊女歌舞伎」です。遊郭は多くの収入を得ていたため、豊富な資金をバックに派手な衣装や最新の楽器(三味線)などを使った豪華な舞台で、多くの客を呼び込むことに成功しました。

ところが、この遊女歌舞伎は売春を目的としたものでもあり、人気のある遊女を取り合って喧嘩がおきるなど、風紀上のトラブルが続出しました。

これを問題視した江戸幕府は、寛永6年(1629年)に歌舞伎の舞台で女性が演じることを一切禁止してしまいました。これが、歌舞伎にとって最初の危機と言えるものであり、この後も時の権力によって様々な干渉を受けることになるのです

「女形」の登場で危機を乗り越える

女歌舞伎が禁止されてしまったので、女性の役は若衆と呼ばれる少年が務めることになりました。これが現在まで続く「女形」の始まりと言えます。

しかし、この当時は男色を好む風習も強く残っており、結局は女歌舞伎と同じように売春を目的としたものとなっていました。すると風紀上のトラブルも続発することとなり、承応元年(1652年)に若衆歌舞伎も幕府によって禁止されてしまいます。

こうなると歌舞伎は、成人の男性だけで芝居をやるしかなくなってしまいます。

ところがそのことによって、それまでは見た目が色っぽい女性の姿を真似ることが売りだった女形が、演技によって観客を魅了しようとするものに進化していきました。

そして舞台の内容も、それまでは踊りが中心だったものから、より内容のある芝居になっていくことで、ドラマとしての歌舞伎で観客を楽しませることができるようになっていくのです。

男性が女性を演じなけらばならなくなったことによって、「女形」の芸が確立されていきました。そして歌舞伎は目と耳を楽しませるだけのものでなく、人々の心に響く深い内容を表現するものとして、その後も長く続いていくことになるのです。

江戸時代〜存続の危機を乗り越え歌舞伎が確立

江戸の町並み

江戸時代を通して、現代まで続く歌舞伎の形はほぼ確立していくことになりますが、その道のりは決して平坦なものではありませんでした。

特に大きな事件として、「絵島生島事件」と「天保の改革」による危機がありました。歌舞伎の存続事態が危ぶまれるほどの出来事でしたが、これらをどのように乗り越えてきたのか解説します。

歌舞伎界最大の危機「絵島生島事件」

正徳4年(1714年)に、江戸城の大奥を揺るがす大事件、「絵島生島事件えじまいくしまじけん」が勃発します。この事件によって、当時の江戸で歌舞伎の興行を許されていた四座(山村座、中村座、森田座、市村座)のうち山村座が取り潰しになってしまいます。いったい何が起きたのでしょうか?

事件の概要を簡単に説明すると、大奥の御年寄として権勢を振るっていた女性・絵島とその一行が、山村座で芝居見物を楽しみました。芝居の後の宴会には当時の人気二枚目役者・生島新五郎いくしましんごろうが呼ばれて大いに盛り上がったのですが、その結果、絵島一行は大奥の門限に間に合わなくなってしまいます。

もともと、幕府は歌舞伎をあまりよく思ってはおらず、原則として大奥の女たちが芝居を見物するのを禁止していたこともあり、このことは大きな問題になりました。

結果として、絵島は江戸城追放後、最終的には信州(長野)への配流・幽閉になり、生島新五郎は三宅島への流罪となりました。その他の大奥関係者や芝居小屋の関係者も全部で1,500人あまりが処分を受けることになります。

このとき、幕府は江戸の芝居小屋すべてを取り潰そうとしたのですが、二代目市川團十郎の活躍によって山村座一座の取り潰しだけで他の三座は助かった(十二代目市川團十郎著「歌舞伎十八番」より)そうです。

ただし、残った三座にも営業を再開する条件として、「3階建ての桟敷席を1階にすること」「役者を桟敷席や芝居茶屋に呼んではいけない」などが決められ、客と役者が交際することは禁じられるようになりました

歌舞伎を弾圧した水野忠邦の改革

天下泰平を謳歌してきた江戸幕府にも、徐々に陰りが見えてきた天保12年(1841年)、老中・水野忠邦みずのただくにによって「天保の改革てんぽうのかいかく」が行われました。これは、財政再建のための改革でしたが、なかなか結果が出なかったことから、倹約を行い、風俗の取締を強化するようになります。

これにより歌舞伎の興行に対する取り締まりも厳しくなり、火災で消失した中村座と市村座には再建の許可をすぐに出しませんでした。

どうやら、水野忠邦と南町奉行の鳥居耀蔵とりいようぞうはこれを機会に芝居小屋を廃止しようと目論んでいたようですが、これに反対して廃止ではなく移転を進言したのが北町奉行の遠山金四郎(いわゆる遠山の金さん)です。

遠山の進言もあって、芝居小屋は廃止こそ免れたものの、当時はまだ辺鄙な場所だとされていた浅草へと移転せざるを得なくなりました。移転の理由は「禁じられている町人との交際をしていること、芝居の内容がみだらで風紀を乱している」からだとされ、歌舞伎役者には旅行の禁止や外出時の編笠の強制などの規制が設けられ、厳しい監視の対象とされてしまいます

そしてこのとき、七代目市川團十郎(当時・海老蔵)が、「贅沢な暮らしをしている」とのことで取締の対象となり、江戸を無期限追放という処分を下されてしまいます。

弾圧されながらも発展する歌舞伎

浅草で新たに芝居を始めたものの、当初は場所も悪く客足も伸びませんでした。しかし、ここでしか芝居を見られないので、段々と客足が戻ってくることになります。しかも、それまではバラバラだった芝居小屋が、同じ場所に集まることによって、芝居町としてかえって賑わいを見せるようになりました。

そして、観客動員に大きく貢献したのが八代目市川團十郎です。父親の七代目は江戸を追放されていますが、幕府に従い浅草に移っていた八代目は、その美貌もあって江戸の女性たちに大人気になります。八代目が「助六」を演じた時に、水入りという場面で使った桶の水は、化粧水として娘たちに飛ぶように売れたと言います。

天保14年(1843年)、水野忠邦の改革は失敗に終わり、老中職から失脚します。そして江戸幕府も終焉を迎えていきますが、歌舞伎は浅草という新たな地で新しい花を咲かせることに成功し、幕末という動乱の時代を乗り越えていったのです

明治維新〜歌舞伎にも変革

明治時代に外国の賓客を迎えた迎賓館

江戸時代が終わりを告げ、元号が「明治」に変わると、日本は今までとはまったくちがった西洋の文化を多く取り入れて行くことになります。これは歌舞伎においても、その根底を覆されるような大きな変革を求められるものでした。

演劇改良運動は実は改悪だった?

明治新政府は日本を西洋列強に同等の国だと認めさせるために様々なことを変革していき、それは歌舞伎というジャンルにも及びます。

西洋では外国からの賓客をもてなすのに、その国の演劇を見せるという習慣がありました。日本政府もそれに倣って、海外からのお客様に日本の演劇である歌舞伎を見せることにしたのですが、当時の歌舞伎の舞台は、西洋の演劇よりも遅れたレベルの低いものとみなされていました。

そこで、明治政府は当時の歌舞伎の興行を行っていた三座(森田座、市村座、中村座)の座元(興行主)たちを呼び出し、これからは下品な内容や荒唐無稽なものではなく、社会の規範となるようなものにしなければならないということを通達しました。

この流れがのちに、時の外務大臣井上馨いのうえかおるの後援を受けた演劇改良会による「演劇改良運動」へと繋がっていきます。

演劇改良で何を改良するかと言えば、「女優を養成して女形を廃止する」「花道をできるだけ使わない」「義太夫の廃止」「椅子席の西洋型の劇場の建設」などがあげられていました。

これらをすべて実現してしまうと、現在の歌舞伎はまったく違ったものになっていたかもしれません。しかし、演劇改良運動に積極的だった九代目市川團十郎が目指した、より事実に即した芝居(活歴)があまり評判がよくなく、急進的すぎる改良は当時の芝居関係者には受け入れられませんでした。演劇改良運動の関係者同士でも意見が食い違ったり、最後は中心だった井上馨が外務大臣から失脚したこともあって失敗に終わります。

もともと庶民の娯楽であった歌舞伎を、急に上流階級のたしなみに耐えうるものにしようとしたこと自体、無理があったのかもしれませんね。

だだし、大きな功績もありました。それは天皇陛下が歌舞伎を観覧する「天覧歌舞伎」が実現したことです。これによって歌舞伎役者の地位を大きく高めることになり、歌舞伎が日本の伝統芸能の一つとして認められるようになっていきます

最初の歌舞伎座には人気俳優が出られなかった

江戸時代には三座だけに許されていた歌舞伎の興行が、明治時代には誰でも申請すれば芝居小屋を作ることができるようになりました。つまり、規制緩和によって歌舞伎への新規参入が可能になったのです。

当時の歌舞伎の大きな劇場は、「新富座」「市村座」「中村座」に「千歳座」(後の明治座)などがありましたが、そこに新しい劇場を作ろうとしたのが、ジャーナリストで政治家でもあった福地櫻痴ふくちおうちと貸金業者の千葉勝五郎ちばかつごろうです。

福地は西洋の演劇にも詳しく、演劇改良会にも参加していましたが、もともとあった劇場の関係者の反対もあって改良運動がうまく行かなかったので、自分の劇場を持つことによって、日本の演劇を改良することを考えました。そこで同じく演劇改良会に参加していた高利貸しの千葉勝五郎を誘って、新しい劇場の建設をはじめました。

この動きに対して他の四座は警戒感を抱き、「四座同盟」を締結して主要な役者の囲い込みを始めます。すなわち、市川團十郎や尾上菊五郎らの当時の人気役者が新しい劇場に出演できないようにしたのです。

福地と千葉は様々な手を使って人気役者が出演できるようにしようとしますが、四座同盟の結束を崩すことはできず、新劇場は開場直前になっても披露公演の役者が決まらないという事態になりました。

しかしこのことが元外務大臣・井上薫の耳に入ります。すでに失脚していたとは言え、井上馨は政府に対して影響力を持っており、演劇改良運動に取り組んでいたこともあってか、新劇場と四座同盟の仲介に入ります。井上の仲介の元、示談金などの条件を付けることで四座同盟は解消し、新劇場への人気役者の出演が可能になったのです。

明治22年11月21日に新劇場は「歌舞伎座」という名称で開場します。それまでは「芝居」と呼ばれていたものが、当時としては新鮮な「歌舞伎」という名称で呼ばれるようになるのは、この劇場ができてからのことになります。

團菊を中心として歌舞伎は新時代へ

明治維新という大きな時代の変革期において活躍したのが「團菊」と呼ばれた九代目市川團十郎五代目尾上菊五郎です。そこに初代市川左團次を加えて「團菊左」が明治の三名優として人気があり、歌舞伎界をリードしていました。

この三人が相次いで亡くなると、五代目中村歌右衛門や七代目松本幸四郎らが台頭し、上方では十一代目片岡仁左衛門や初代中村雁治郎が活躍しました。六代目尾上菊五郎や二代目市川猿之助らがこれに続きます。

劇場においては、江戸時代から続いていた三座は衰退していき、歌舞伎座と新たに作られた帝国劇場が人気を二分していました。そして、明治35年(1902年)には後に歌舞伎俳優すべてを収めることになる松竹が創設されたことも見逃せません。

江戸から明治へと時代が大きく変わることによって、日本は世界に向けて門戸を開くことになりました。歌舞伎も、それまでは庶民の娯楽だったものが、世界に通用する伝統芸能として進化して行かざるを得なくなったのです。

昭和・平成・令和〜様々なエンターテイメントの登場

大正時代の関東大震災や昭和に入ってから第二次世界大戦などの災害・戦災では日本全体が大きな困難を迎えました。歌舞伎も激動の時代に翻弄されますが、どのように乗り越えてきたのでしょうか。

GHQによって歌舞伎の演目が制限される

第二次世界大戦時は、当然娯楽どころではなく、歌舞伎興行もできなくなり、空襲で歌舞伎座も焼失してしまいます。

昭和20年(1945年)8月15日に日本はポツダム宣言を受諾することにし、事実上の終戦となります。国民全員が疲弊しきっていたときでしたが、9月1日に市川猿之助一門が焼け残っていた東劇で公演を行うと、大勢の観客が詰めかけました。苦しいときこそ、エンターテイメントが人々に希望と喜びを与えるものだとよくわかります。

しかし、その後はGHQによる統制が厳しくなり、封建時代の忠義を美化するような内容は日本の民主化にふさわしくないとされ、「菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ」や「仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら」など、多くの人気演目が禁止されてしまいました。

しかし、本来の歌舞伎を復活させたいという関係者の地道な努力によって、徐々に解禁されていくことになります。日本が復興していくとともに、歌舞伎も再び娯楽の中心になっていくかと思われました。

歌舞伎は娯楽の中心ではなくなる

戦後の日本の復興と発展は目覚ましいものが有り、人々の生活に余裕が出てくると、様々な娯楽が登場してきました。それによって歌舞伎は娯楽の中心ではなくなっていきます。

それでも東京では歌舞伎座が昭和26年に再建され、十一代目市川團十郎や十七代目中村勘三郎、八代目松本幸四郎、六代目中村歌右衛門らが活躍します。

関西歌舞伎は観客が激減して存続の危機を迎えますが、十三代目片岡仁左衛門が私財を投じて「仁左衛門歌舞伎」を自主公演で行うなどして、再び活気を取り戻していきます。

流行を取り入れて新しい歌舞伎へ

昭和から平成、令和へと時代が移っていき、芸術や文化においてもグローバル化が加速していくと、それぞれの国や民族の固有の文化が注目されてくるようになりました。

歌舞伎も「日本の庶民の娯楽」だったのが、盛んに海外公演も行われるようになり、ユネスコの無形文化遺産に認定されるなど「世界に誇る伝統芸能」となっていきました。

一時期は「年寄りがみるもの」というイメージがありましたが、現代ではテレビや映画で活躍する歌舞伎役者も増え、スーパー歌舞伎のように最新の技術を駆使した演出や、「ワンピース」や「風の谷のナウシカ」などの漫画やアニメを原作とした新しい歌舞伎が登場するなど、若者にも歌舞伎ファンが広がっています。

400年続いてきた伝統を守りながら、新しい時代に合ったものを取り入れることで、これからも歌舞伎は発展し続けていくのでしょう。

新型コロナウイルス感染拡大防止による歌舞伎の取り組み

新型コロナウイルス感染拡大防止を受けて、特別に歌舞伎の舞台映像や歌舞伎役者の映像が公開されているものを紹介します。

幸四郎出演、歌舞伎夜話特別編「歌舞伎家話 第一回」生配信のお知らせ[有料](5/29〜5/30)

かずたろう歌舞伎クリエイション(5/22〜)

『上 羽根の禿 /下 供奴』尾上右近自主公演 第三回研の會より|国立劇場(2017年8月)【期間限定配信】(5/20〜)

『猿翁十種の内 酔奴』尾上右近自主公演 第五回研の會より|国立劇場(2019年9月)【期間限定配信】(5/15〜)

公開終了 NEWシネマ歌舞伎『三人吉三』ネット上映会[有料](5/9〜5/16)

公開終了 『スーパー歌舞伎Ⅱ ワンピース』ネット上映会[有料](4/25〜5/2)

公開終了 【期間限定】3月歌舞伎公演『義経千本桜』、収録動画を無料公開!(4/6〜4/30)

公開終了 松竹チャンネル、歌舞伎座「三月大歌舞伎」舞台収録映像を本日より公開(4/17〜4/26)

公開終了 松竹チャンネル、南座 スーパー歌舞伎II(セカンド)『新版 オグリ』舞台収録映像を本日より公開(4/13〜4/19)

まとめ:苦難の歴史が今の歌舞伎を作った

歌舞伎は始まった江戸時代から、幕府による規制や弾圧を受けながらも、庶民の貴重な娯楽として存在し続けてきました。

明治維新や戦争などの大きな時代の変化のたびに、その存続が危ぶまれましたが、先人たちの努力によって、時代の変化に合わせながらも歴史と伝統を守り続けてきたのです。

エンターテイメントが多様化し、グローバルな環境にも対応しなければいけない現代においても、歌舞伎は常に新しいものを生み出しながら、私達を楽しませてくれるでしょう。

令和2年(2020年)は新型コロナウイルスの影響で公演の中止が続いていますが、インターネットでの公演の無料配信を行ったり、歌舞伎役者が個人で様々な情報発信を行うことで、歌舞伎ファンを楽しませてくれています。

一刻も早く新型コロナウイルスの感染が終息し、歌舞伎座をはじめとする全国の劇場が再開することを楽しみにしたいですね。

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