中村吉右衛門の歌舞伎家系図紹介!鬼平の夢はまだ終わらない
>>中村吉右衛門さんご逝去
歌舞伎役者・二代目中村吉右衛門(屋号:播磨屋)は、歌舞伎の重厚な時代物の立役を得意とし、人間国宝にも選ばれている現在の歌舞伎界を代表する役者の一人でした。
テレビ時代劇の「鬼平犯科帳」で長らく主役を務めたことでも有名な吉右衛門ですが、実の兄は歌舞伎役者の二代目松本白鸚、甥に十代目松本幸四郎、娘婿は五代目尾上菊之助と親類にも錚々たるメンバーが集います。
この記事では、そんな吉右衛門の家系図を紹介し、これまでの経歴や若き時の葛藤、歌舞伎を継承することへの思い、家族や孫との関わりなどを歌舞伎初心者の方にもわかりやすく解説します。また出演DVDなども紹介していきますので、これから映像で中村吉右衛門の歌舞伎を見ようと思う方は、ぜひ参考にしてくださいね。
目 次
歌舞伎役者「中村吉右衛門」の家系図はこれ!
歌舞伎役者・二代目中村吉右衛門を中心とした家系図は以下のようになります。
二代目中村吉右衛門は昭和19年に八代目松本幸四郎(当時・後の初代松本白鸚)の次男として生まれました。生まれた当時の本名は藤間久信。2つ年上の兄は二代目松本白鸚です。母は初代中村吉右衛門の一人娘の正子(せいこ)。
初代吉右衛門は戦前から名優として活躍し、同時期に活躍した六代目尾上菊五郎とは良きライバル関係であり、ファンからは「菊吉」と称され人気がありました。
息子のいない初代吉右衛門は、一人娘の正子に婿養子を迎えて「中村吉右衛門」の名跡を継がせようと考えていたので、正子が八代目松本幸四郎に嫁ぐことに反対します。
そこで正子は、「息子を二人生んで一人を吉右衛門の家に養子に出す」という約束をして結婚を認めさせ、次男として生まれた吉右衛門を自分の父・初代吉右衛門の養子に出すことになります。
初代の心を受け継ぐ〜中村吉右衛門のプロフィール
中村吉右衛門は昭和19年に八代目松本幸四郎の次男として生まれました。主なプロフィールは以下のようになります。
二代目中村吉右衛門 |
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生没年 |
昭和19年(1944年)5月22日生 令和3年(2021年)11月28日没 享年77歳 |
本名 |
藤間久信(生誕時) 波野辰次郎(中村吉右衛門襲名後) |
初舞台 |
1948年6月 東京劇場 中村萬之助の名で俎板長兵衛の長松役 |
襲名歴 |
昭和23年(1948年)6月 中村萬之助 昭和41年(1966年) 中村吉右衛門(二代目) |
当たり役 |
「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助 「勧進帳」の武蔵坊弁慶 「義経千本桜」の平知盛 「籠釣瓶」の佐野次郎左衛門 「河内山」の河内山宗俊 「絵本太功記」の武智光秀 「熊谷陣屋」の熊谷直実 「寺子屋」の松王丸など多数 |
歌舞伎以外の代表作 |
テレビドラマ「鬼平犯科帳」 |
主な受賞歴 |
2002年 日本芸術員会員 2011年 重要無形文化財(人間国宝) 2017年 文化功労者 |
特技など |
歌舞伎脚本家(松貫四)、絵画 |
生まれたときから祖父・初代吉右衛門の元に養子に出されることを宿命つけられていた久信少年は、4歳になる直前に祖母(千代)から「今日からウチの子になるんだよ」と言われ、中村吉右衛門家の跡取りとしてのスタートを切りました。
養子になってまもなく中村萬之助として初舞台を踏み、10歳の時に養父・初代吉右衛門が亡くなると「中村吉右衛門」の名を継ぐことを意識しだします。
16歳のときに実父や兄と共に、それまで歌舞伎を独占していた松竹から東宝へと電撃移籍。22歳で二代目中村吉右衛門を襲名し、30歳前頃には単身で松竹に復帰します。
復帰後は歌舞伎界を代表する役者として活躍し、人間国宝にも認定されました。70歳を超えた今、体調を崩して休演することもありますが、まだまだ現役として舞台に立ち続け、後輩たちへ芸を伝えることにも熱心です。
ここでは、歌舞伎役者・二代目中村吉右衛門が歩んできた歴史を紹介していきます。
戦後の混乱期をくぐり抜けた少年時代
中村吉右衛門は大東亜戦争中の昭和19年(1944年)5月22日、東京の牛込で父・八代目松本幸四郎と母・正子(初代中村吉右衛門の娘)の次男として生まれ、藤間久信と名付けられました。
当時、東京は米軍による空襲の危険にさらされていたので、祖父の初代吉右衛門とともに松本幸四郎家も長野の日光に疎開します。その後、1945年3月10日の東京大空襲で牛込の実家は跡形もなくなってしまい、幸四郎一家は危うく難を逃れたのです。
日光では2つ上の兄・昭曉(現・二代目松本白鸚)とともに、ばあやと呼んでいた女性(村杉たけ)に面倒を見てもらっていました。
ある日、ばあやに連れられて兄と三人で路面電車に乗っていたとき、電車が追突事故を起こしたことがあったそうです。まわりは怪我した人で血まみれになるような状況でしたが、ばあやがとっさに兄弟をかばって倒れたおかげで二人とも怪我はありませんでした。
ところが家に帰ってからばあやは全身に痛みがあることに気づき、数日後には両肩が腫れ上がります。実は倒れた時に鎖骨を骨折していたのでした。
骨折しながらも泣きじゃくる兄弟を家まで連れて帰ってくれたばあやのおかげで命拾いした、今でも思い出すと涙が流れ感謝しかないと吉右衛門は述懐しています。
初代中村吉右衛門の養子となり初舞台
久信少年が四歳で初舞台を踏む前のある日、よそ行きの服を着せられて祖父である初代吉右衛門の家に連れて行かれました。祖父は舞台で不在でしたが、そこで祖母(千代)に「あんたは今日からウチの子になるんだよ」と言われます。
そのときは何か祖母に怖いものを感じますが、祖父母のウチの子になるということを疑問に思うことはなく、そのまま受け入れたそうです。祖父母の子になると言ってもまだ幼いので、住むのは実父母の元でした。
昭和23年(1948年)に、空襲でも焼けずに残っていた東京劇場において中村萬之助の名で初舞台を踏みます。「萬」の字は初代吉右衛門の母方の祖父が経営していた「萬屋」という芝居茶屋から取られたものです。
出演した演目は「御存俎長兵衛」の長松と、「ひらかな盛衰記 逆櫓」の駒若丸でした。
長松は見得をする場面もあり気持ちよく演じたそうですが、駒若丸を演じるときは普段はやさしい祖父・初代吉右衛門が血まみれの顔の役だったのが恐ろしかったのか、出番前から泣いてばかりで途中からは代役を立てられてしまうというほろ苦いデビューとなりました。
厳しい子役時代と養父との別れ
子役の芝居の稽古は普通はお弟子さんがやるものですが、萬之助を教えたのは実母の正子でした。
正子は父に当たる初代吉右衛門に跡取りの男子のように育てられ、歌舞伎の舞台にも立ったことがある人でした。そして初代吉右衛門の芝居をよく覚えていて、萬之助に教えるときも間違えると何度もやり直しをさせ、出来るまでは泣いても決してやめない超スパルタ教育だったそうです。
小学校二年生のとき兄と同じ暁星学園に編入します。ここは実父の八代目幸四郎も通った学校です。
小学校に通いながらも踊りや長唄の稽古をしなければならないので、学校が終わるとばあやが迎えに来て、兄と一緒にお師匠さんのもとに稽古に通う日々が続きます。
暁星学園に編入してすぐ、萬之助の家は初代吉右衛門の家のそばに引っ越します。それから週に何度か養父である初代吉右衛門の家に泊まりに行くことになり、住み込みのお弟子さんたちからは「坊っちゃん」と呼ばれて可愛がられたそうです。
ところが、10歳のときに養父・初代吉右衛門が亡くなります。萬之助は跡取りとして養父の死に水を取り、築地本願寺で盛大に行われた告別式では喪主として座ることになります。このときに「中村吉右衛門という名を継がなければならない」ということをはじめて意識するようになりました。
松竹から東宝へ
暁星学園から早稲田大学の仏文学科に進んだ萬之助は、「中村吉右衛門」という名を継がなければならないと思いながらも、歌舞伎役者としての才能に疑問を感じていました。
当時、実父の八代目幸四郎や兄・六代目染五郎とともに松竹から東宝に移籍していましたが、役者を続けることに悩む日々が続き、精神安定剤をお酒のジンで飲んで倒れ救急車で運ばれたこともありました。
萬之助は悩んだ末についに、「役者をやめてフランス文学を勉強しに留学したい」と実父・八代目幸四郎に告げます。すると実父は「何にでもなっちまいな」と言って後ろを向いてしまいました。
萬之助はその寂しげな背中を見たときに、実父は中村吉右衛門家(播磨屋)と松本幸四郎家(高麗屋)の両家の芸を、自分と兄に継がせなければならない大きなプレッシャーと闘ってきたのだと気付かされ、フランス行きを断念して中村吉右衛門の名を継ぐ立派な役者になることを決意したのです。
実父の期待に答えるために断念したフランス行きですが、実はフランス文学の勉強以外にも、もう一つ大きな理由がありました。それは、当時付き合っていたフランス人女性が帰国してしまったので、後を追ってフランスに行こうと思ったのだと、小玉祥子さんのによる聞き書き「二代目」の中で語られています。
歌舞伎役者として松竹に復帰
昭和41年(1966年)10月に、当時は東宝に所属していた22歳の萬之助は帝国劇場のこけら落とし公演で二代目中村吉右衛門を襲名することになります。
襲名披露公演には実父の八代目松本幸四郎、六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑など大物役者も集い、若い二代目吉右衛門の門出に花を添えます。しかし、新築されたばかりの帝国劇場は歌舞伎に慣れていないスタッフも多く、いろいろと不具合もあったようですが、どうにか二代目としての出発を果たします。
ただ、東宝ではまだ若い吉右衛門は歌舞伎よりも現代劇に出ることが多く、それも脇役で出ることがほとんどでした。
せっかく祖父が大きくした歌舞伎役者・中村吉右衛門の名跡を継いだのにこれでいいのか・・・吉右衛門を襲名しても苦悩は続きます。
そしてついに吉右衛門は、「いつまでも東宝にいるわけにはいかない」という結論に達し、東宝をやめて松竹に復帰する道を選ぶことになります。
吉右衛門の名に恥じない役者に
実父と兄を東宝に残して、養父・初代吉右衛門の弟子たちとともに松竹に復帰することになった吉右衛門は、東宝の舞台にも出ながら徐々に松竹の舞台に重点を置く形をとります。(後に実父と兄も松竹に復帰)
その後、私生活では31歳のときに「はとこ」(祖母の弟の孫)にあたる知佐夫人と結婚し、歌舞伎では菊五郎劇団で多く舞台に立ちながら吉右衛門の名跡に相応しい実力を身に着けていきます。
昭和60年(1985年)には四国のこんぴら歌舞伎を十八代目中村勘三郎(当時勘九郎)や澤村藤十郎とともに復活させ、自らは松貫四の名で新作歌舞伎の脚本も手掛けます。
平成元年(1989年)には、実父・松本白鸚も主演したテレビ時代劇「鬼平犯科帳」で主役の長谷川平蔵を演じることになります。大ヒット時代劇になった「鬼平」は、2016年のスペシャルドラマまで吉右衛門が平蔵を演じて一旦幕を閉じました。
1990年にはアメリカで初の海外公演を一ヶ月半に渡り行いますが、このとき「歌舞伎」はまだまだ世界では知られていないことに気づきます。歌舞伎を世界に誇る芸術にするためには、まず日本人に歌舞伎の素晴らしさを伝えたいという思いから、2006年から文化庁の「本物の舞台芸術体験劇場」に参加し、日本各地の子どもたちに歌舞伎の素晴らしさや楽しさを伝えてまわります。
孫が生まれても夢を追い続ける
平成22年(2011年)には重要無形文化財保持者、いわゆる「人間国宝」に認定され、後進への歌舞伎の芸の継承にますます責任を感じることになります。
そんなある日、後輩である尾上菊之助が「お願いがある」と言って訪ねてくることになります。歌舞伎の世界で後輩が先輩にお願いするのは役の教えを請う場合が多いのですが、吉右衛門と菊之助では芸風がちがうので「教えるような役はないはずだが?」と不思議に思っていると、なんと菊之助から出た言葉は「お嬢さんを僕にください」というものでした。
驚いた吉右衛門は思わず、「こんなんでいいの?」と言ってしまうほどでしたが、菊之助と吉右衛門の四女・瓔子(ようこ)さんは晴れて結婚することになり、すぐに孫の和史くん(現・丑之助)が生まれることになります。
吉右衛門にとっては初孫であり、自身の子供は女の子ばかりだったこともあってか、とにかく可愛くてしかたないようで、テレビなどでもじじバカぶりを遺憾なく発揮する様子が映されています。
本人も「和史といるときが一番和む」と言っていますが、和史くんが歌舞伎の舞台に立つようになると、その妹の知世ちゃんにより愛情を注ぐようになったそうです。
その理由は、「歌舞伎の家では男の子が舞台に立つようになると家族はつきっきりになってしまい、女の子はほったらかしにされるので可愛そうだから」というもので、孫たちに対する吉右衛門の愛情と優しさを感じさせられます。
孫との共演も果たし、歌舞伎界では重厚な演技を得意とする不動の立役としての地位を確立した吉右衛門ですが、70代の後半になってもその舞台への情熱が薄れることはありませんでした。
養父である初代吉右衛門の名に恥じない役者になろうと、その芸に対する心を追い続けてきた二代目吉右衛門は、「80歳で勧進帳の弁慶を務める」という目標に向けて日々精進を重ねていましたが、残念ながら77歳でこの世を去りました。
初代中村吉右衛門とは?
二代目吉右衛門の祖父であり養父でもある初代中村吉右衛門とはどのような役者だったのでしょうか?
初代中村吉右衛門は、父である三代目中村歌六が養子を取った後の明治19年(1886年)に次男として浅草で生まれます(長男は早世)。
吉右衛門という名は、母方の祖母が経営していた芝居茶屋「萬屋吉右衛門」から取られたもので、11歳の初舞台から亡くなる68歳まで名乗り続けることになります。
劇聖と呼ばれた九代目市川團十郎と上方生まれの父・三代目中村歌六の影響を受けた幅広い芸を持ち、徹底して役に成り切る熱演型で、役によっては舞台裏でも涙が止まらないほどでした。
同時代に活躍した六代目尾上菊五郎とともに歌舞伎界を牽引し、二人の活躍ぶりは「菊吉時代」とも呼ばれました。
大東亜戦争の終戦直後、進駐軍によって歌舞伎の伝統的な演目の多くが禁止され、歌舞伎存亡の危機を迎えたことがありました。その危機を救ったと言われるのが進駐軍の検閲担当官だったフォービアン・バワーズですが、歌舞伎への造詣も深い彼がもっとも心酔した歌舞伎役者が初代中村吉右衛門でした。初代が亡くなる前の最後の舞台で「熊谷陣屋」を演じたときもバワーズは観劇しています。
初代吉右衛門が亡くなったとき、当時萬之助を名乗っていた二代目吉右衛門はわずか10歳でした。それから60年以上が過ぎた今でも、まだまだ初代の芸には及ばないと思っているそうです。
それでも初代吉右衛門の功績を顕彰するとともに後世に初代の芸と志を伝えようと、初代の俳名からとった「秀山祭」と名付けられた興行を2006年からほぼ毎年9月に行い、初代の当たり役であった、「熊谷陣屋」の熊谷、「寺子屋」の松王丸、「俊寛」などを演じています。
「一生修行、毎日初日」という言葉を口癖のように唱えていた初代吉右衛門は、その言葉通りに亡くなる直前まで役者として舞台に立ち続け、昭和29年(1954年)に68歳で生涯を閉じました。
中村吉右衛門の代名詞「鬼平犯科帳」
二代目吉右衛門の代名詞とも言えるのが、池波正太郎原作のテレビドラマ「鬼平犯科帳」の鬼平こと長谷川平蔵役です。
歌舞伎を知らない人にも広く中村吉右衛門の名を知らしめたこの作品は、二代目吉右衛門の実父・初代松本白鸚も演じており、原作者の池波正太郎は初代白鸚をイメージして小説を書いたとのこと。
二代目吉右衛門は40歳のときにこの役の依頼を受けますが、まだ早いと辞退します。その後、45歳のときにもう一度依頼されたときに受けることを決意し、2016年のスペシャルドドラマまで150作に出演しますが、切れのある立ち回りを見せられるうちに幕を引きたいとの考えで鬼平は終了します。
激しい立ち回りだけでなく、江戸の町人の良き風情を醸し出す二代目吉右衛門の「鬼平」は、視聴率が20%を超えることもあり、ビデオとDVDの販売総数は100万本を超えるほどのヒット作となり、歌舞伎を知らない人にも中村吉右衛門の名を広く知らしめました。
2024年には初代松本白鸚の孫であり二代目吉右衛門の甥にあたる十代目松本幸四郎が長谷川平蔵役を演じる「鬼平犯科帳」が映画で上映されることが決定しています。
祖父と叔父の後を受け継いだ幸四郎が、どのような「鬼平」を作り上げるのかも楽しみですね。
吉右衛門の趣味は作家に絵画
古風で歌舞伎一筋の役者というイメージがある吉右衛門ですが、意外にも若いころは車が好きだったり夜な夜な“クラブ活動”に明け暮れていたりと、ちょっとやんちゃな若者という面もあったそうです。
しかし、意外にも趣味は絵を描くことだそうで、本人も「絵筆を持っているときが一番楽しい時間」と語っています。
養父・初代吉右衛門と実父・初代白鸚も絵を書くことを趣味としていたことも影響したのか、子供の頃から景色や他の役者の絵を描いていたようですね。
松竹の公式Youtube動画「歌舞伎ましょう」においても、得意の絵を披露している様子が公開されています。
また、20代のころに兄に勧められて舞台の台本を書いてみたことがあるそうで、そのときのタイトルが「ヤマトタケル」でした。これは二代目市川猿翁(当時・三代目猿之助)が梅原猛の脚本でスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」を上演するよりずっと前の話です。残念ながら吉右衛門の「ヤマトタケル」は舞台で上演されることはなく、台本も捨ててしまったそうです。
しかし、1985年の第一回こんぴら歌舞伎の時に本格的に台本を執筆し、そのときに名乗った劇作家・松貫四という名前で多くの脚本を執筆しています。
歌舞伎役者意外でも多彩な才能を見せるのも、二代目中村吉右衛門の魅力の一つなのですね。
中村吉右衛門の出演情報
中村吉右衛門は令和3年(2021年)3月末に体調を崩して入院し、その後は回復することなく同年11月に惜しまれてこの世を去りました。最後の歌舞伎の舞台は当たり役の「楼門五三桐」石川五右衛門役です。そのときの舞台の配役は以下のようになっています。
令和3年 歌舞伎座 三月大歌舞伎
歌舞伎座三月大歌舞伎 ※公演終了 |
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日時 |
令和3年(2021年)3月4日(木)~29日(月) ※休演日 11日(木)、22日(月) |
劇場 |
歌舞伎座 |
上演開始時間 |
午後6時30分〜 |
第三部 演目(一) |
楼門五三桐 |
配役 |
【石川五右衛門】 中村吉右衛門(〜3/28) 松本幸四郎(3/29〜) 【右忠太】 中村歌昇 【左忠太】 中村種之助 【真柴久吉】 松本幸四郎(〜3/28) 中村鴈治郎(3/29〜) |
以下に中村吉右衛門の歌舞伎が見られるDVDを紹介します。
歌舞伎名作撰 梶原平三誉石切ー石切梶原ー [ 中村吉右衛門[二代目] ]
歌舞伎演目「石切梶原」こと「梶原平三誉石切」については以下の記事を御覧ください。
まとめ:夢を追い続ける役者・二代目中村吉右衛門
二代目中村吉右衛門について書いてきましたがいかがでしたでしょうか?
生まれたときから祖父の養子になり「中村吉右衛門」という大名跡をつがなければならない運命を背負った少年は、様々な葛藤を抱えながら成長し、名実ともに歌舞伎界になくてはならない偉大な役者になりました。
本人はまだまだ養父・初代中村吉右衛門には及ばないと日々精進を続けていましたが、病に倒れこの世を去ることになります。
晩年には、
「歌舞伎を世界に認められる日本の誇る伝統芸能にしたい」
「80歳で勧進帳の弁慶を演じる」
という大きな夢に向かって歩み続けた歌舞伎役者・二代目中村吉右衛門の精神は、その教えを受けた若き歌舞伎役者たちが受け継いでいくことでしょう。