【歌舞伎】秀山祭(しゅうざんさい)とは?名優・中村吉右衛門を偲ぶ舞台を解説!
近年の歌舞伎座で9月の恒例となっているのが「秀山祭(しゅうざんさい)」ですが、そもそも“秀山祭”とはなんのお祭りなのでしょうか?
ここでは、九月の歌舞伎座恒例になっている秀山祭とはどういうイベントなのかについて、歌舞伎初心者の人にもわかりやすく解説していき、秀山祭のはじまりや歴史などについても紹介していきます。
目 次
秀山祭とは初代と二代目の中村吉右衛門を顕彰するお祭り
秀山祭とは、戦後の歌舞伎界を牽引した名優である初代・中村吉右衛門(屋号・播磨屋)の残した偉大な功績を顕彰し、その卓越した芸を後世の役者たちへと受け継いでいくということで、初代の生誕120年を記念して平成18年(2006)から始められた歌舞伎の興行のことです。
“秀山”とは初代吉右衛門の俳号(俳句を詠むときの名前)であり、秀山祭の実現を目指して尽力したのは初代の養子である二代目・中村吉右衛門(播磨屋)です。
秀山祭の名がつく興行では、初代吉右衛門の当たり役と言われる舞台が上演されてきましたが、令和3年(2021)に二代目吉右衛門が亡くなってからは、二代目の芸を顕彰して受け継ぐというものにもなっています。
歌舞伎の興行では亡くなった名優の何回忌での追善興行というのはよく行われていますが、毎年決まった月に行われるのは9月の秀山祭以外では5月の「團菊祭」ぐらいしかありません。
團菊祭は九代目・市川團十郎と五代目・尾上菊五郎という歌舞伎界でも屈指の歴史と格式を誇る名門中の名門の二人の名優を顕彰するものですが、特別名門の家柄でもなく歴史も浅い初代・中村吉右衛門という一人の役者を顕彰するために始まった秀山祭というのは異例であり、それだけ初代・吉右衛門の歌舞伎界に残した功績が大きかったということでしょう。
「團菊祭」について詳しくは以下の記事を御覧ください。
それでは次に、初代と二代目の中村吉右衛門がどのような役者だったのかを次に紹介します。
初代・中村吉右衛門
初代・中村吉右衛門は本名を波野辰次郎といい、明治19年(1886)3月24日に三代目・中村歌六の子として生まれました。弟には三代目・中村時蔵と十七代目・中村勘三郎がいます。
10歳で市村座で上演された「越後騒動」の仙千代で初代・中村吉右衛門を名乗り初舞台を踏むと、当時浅草座で行われていた子供歌舞伎で抜群の才能を見せて14歳で座頭を勤めるほどになります。明治35年(1902)に歌舞伎座の座付きになると、“劇聖”と呼ばれた九代目・市川團十郎の指導を受け、明治38年(1905)には名題に昇進し、同じく九代目團十郎に指導を受けた六代目・尾上菊五郎とともに花形人気役者となり、二人の人気を称して“菊吉”と呼ばれるようになります。
初代吉右衛門は子供のころから天才的な演技で評判を集めていました。舞台上では役になりきって熱演するタイプであり、卓越した台詞術を駆使して時代物・世話物どちらも得意として数多くの当たり役を生み出しています。
得意とする芸を集めた「秀山十種」を選定し、「二条城の清正」などの清正が登場する舞台を得意としていたことから“清正役者”との異名も持ちます。
また、吉右衛門劇団と呼ばれる一座を率いており、ライバルの六代目菊五郎亡き後は歌舞伎界のトップとして活躍し、“吉右衛門”という母方の祖父の名前からとった名跡を一代で大名跡に育て上げました。
家庭的には男の子に恵まれなかったので跡継ぎがいなかったのですが、一人娘の正子が二代目・松本純蔵(後の初代・松本白鸚)に嫁ぐときに、「男の子を二人は産んで、そのうちの一人に吉右衛門の名を継がせます」と約束し、実際に次男として生まれた孫の久信(後の二代目吉右衛門)を養子として迎えることになります。
昭和29年(1954)7月の歌舞伎座での「熊谷陣屋」で熊谷直実を勤めたのを最後の舞台として同年の9月に68歳でなくなります。このとき養子として迎えた久信はすでに中村萬之助を名乗って舞台に立っていましたが、まだわずか10歳でした。
初代吉右衛門が得意芸を集めて定めた「秀山十種」ですが、実際は6演目しか選ばれていません。「二条城の清正」「蔚山城(うるさんじょう)の清正」「熊本城の清正」「弥作の鎌腹(やさくのかまばら)」「清正誠忠録(きよまさせいちゅうろく)」「松浦の太鼓」の6演目がそれですが、4演目は加藤清正が登場するもので、「清正役者」との異名は伊達ではないことを伺わせます。近年は「松浦の太鼓」「二条城の清正」が多く上演されています。
二代目・中村吉右衛門
二代目・中村吉右衛門は昭和19年(1944)5月22日に八代目・松本幸四郎(後の初代・松本白鸚)の次男として生まれましたが、4歳になる前に祖父である初代吉右衛門の養子となり、すぐに中村萬之助を名乗り初舞台を踏みます。
祖父が存命のときはまわりからは「若旦那」と呼ばれてチヤホヤされていましたが、10歳のときに祖父が亡くなると手のひらを返したように「ただの子役」として扱われるようになってしまいました。
若いときは役者を続けるかどうか悩む時期もありましたが、実父の初代白鸚の背中に歌舞伎の家を背負う重さを感じて歌舞伎役者として生きていくことを決心します。
昭和41年(1966年)10月に二代目・中村吉右衛門を襲名すると、本名も養父と同じ“波野辰次郎”に改名し、名実ともに吉右衛門の名を受け継ぐ覚悟を示しました。
初代吉右衛門の芸には「足元にも及ばない」と口癖のように言い続けていましたが、初代にも劣らない卓越した台詞術とたくみな感情表現の豊かさ、そして舞台ぶりの大きさで観客を魅了していきます。
数々の当たり役を持ちますが、代表的な例として「熊谷陣屋」の熊谷直実、「盛綱陣屋」の佐々木盛綱、「忠臣蔵」の大星由良之助、「俊寛」の俊寛などがあり、平成23年(2011)には人間国宝にも選ばれるなど、不動の歌舞伎立役としての地位を確立していきます。
後進の指導にも熱心でしたが、子どもたちに歌舞伎を伝えるために全国の小学校を回ったり、古い芝居小屋である金丸座の復活のために「こんぴら歌舞伎」を開催に尽力するなど、歌舞伎を広めるために熱心に活動します。
また、松貫四の名で歌舞伎の脚本を書いたり、舞台の合間には趣味の絵を描いたりするなど、役者以外でも多才な面を見せていました。
初代と同じように跡継ぎの男の子には恵まれませんでしたが、四女の瓔子が五代目・尾上菊之助と結婚して生まれた孫の和史(現・尾上丑之助)を溺愛し、舞台での共演も果たします。
まだまだ活躍が期待されていましたが、令和3年(2021)3月の歌舞伎座で「楼門五三桐」の石川五右衛門で出演しているときに倒れます。家族や関係者に支えられて闘病生活を続けていましたが、同年11月に帰らぬ人となりました。
二代目・中村吉右衛門についてさらに詳しくは以下の記事を御覧ください。
秀山祭の歴史
秀山祭が始まったのは平成18年(2006)9月の歌舞伎座ですが、それまでに二代目吉右衛門の知られざる苦労があったようです。
二代目吉右衛門は平成15年(2003)9月の歌舞伎座で初代吉右衛門の五十回忌追善公演を行った後、初代の芸をいかにして後世に継承していくかを考えるようになります。
まず、初代のように「吉右衛門劇団」を持つことで、そこで初代の芸の継承を考えていたようですが、これはうまく行かなかったようです。
そこで次に、劇団を作る前段階となる興行を行うことを考え、それを「秀山祭」と名付けて歌舞伎座での公演にこぎつけます。
第一回の秀山祭を前に二代目吉右衛門は以下のようなコメントを残しています。
二代目吉右衛門の言葉通り、秀山祭は回を重ねて2023年9月の時点で14回開催されています。これからも初代と二代目の吉右衛門の名とともに受け継がれてほしいものです。
秀山祭の開催 |
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2006年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 初代中村吉右衛門生誕百二十年 (歌舞伎座) |
2007年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 (歌舞伎座) |
2008年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 (歌舞伎座) |
2010年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 (新橋演舞場) |
2011年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 三代目・中村又五郎襲名披露 四代目・中村歌昇襲名披露 (新橋演舞場) |
2012年3月 |
秀山祭三月大歌舞伎 三代目・中村又五郎襲名披露 四代目・中村歌昇襲名披露 (京都南座) |
2014年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 (歌舞伎座) |
2015年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 (歌舞伎座) |
2016年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 (歌舞伎座) |
2017年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 (歌舞伎座) |
2018年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 (歌舞伎座) |
2019年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 (歌舞伎座) |
2022年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 二世中村吉右衛門一周忌追善 (歌舞伎座) |
2023年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 二世中村吉右衛門三回忌追善 (歌舞伎座) |
2024年9月 |
秀山祭九月大歌舞伎 (歌舞伎座) 「二代目播磨屋八十路の夢」勧進帳上演 |
※2009年は「歌舞伎座さよなら公演」、2020年、2021年はコロナ禍のため、秀山ゆかりの狂言の演目を上演。
※2013年は開催なし。
秀山祭の見どころは?
歌舞伎座の9月の恒例となっている秀山祭ですが、その見どころはなんでしょうか?
もともとは初代吉右衛門を顕彰しその芸を受け継ぐということから始まったので、当然初代吉右衛門が得意とした演目や「秀山十種」を二代目・吉右衛門や他の役者たちがどのように演じるのかが見どころでした。
二代目吉右衛門は養父である初代吉右衛門について以下のように語っています。
実際に初代吉右衛門の演技を見ている役者は少なくなっており、映像などもほとんど残っていないので演技そのものを受け継ぐのは難しくなっていますが、その芸に対する姿勢をとても重要視し、それを受け継いでほしいというのがわかります。
また、以下のようにも語っています。
「引窓」「寺子屋」「俊寛」などは現在は人気の演目で何度も上演されていることを考えると、ちょっと驚きです。「石切梶原」にいたっては初代吉右衛門が尊敬して師事した九代目團十郎が、「梶原は二股武士(※二心を抱く不忠者)だから自分はやらない」と宣言していたほどなので、演じるにはかなりの勇気がいったと思われます。
しかし、これらの演目を現在人気演目となし得たのは、すべて当たり役とした二代目吉右衛門の功績も大きいと言えます。
秀山祭では、初代吉右衛門の芸に対する心得や、それを受け継いできた二代目吉右衛門の魂を感じられるような芝居が一番の見どころと言えるのではないでしょうか。
初代が復活させた演目「石切梶原」こと「梶原平三誉石切」について詳しくは以下の記事を御覧ください。
中村吉右衛門の名は誰が受け継ぐのか?
二代目・中村吉右衛門が亡くなってからは「中村吉右衛門」という大名跡は空位になってしまいました。二代目吉右衛門には息子がなかったので、今後この名跡がどうなるのかは現時点ではわかりません。
もし、この先、三代目・中村吉右衛門が生まれるとすればどのような可能性があるのでしょうか?
考えられるのは、初代吉右衛門の血を受け継ぐ松本幸四郎家(高麗屋)からか、二代目吉右衛門の血を受け継ぐ七代目・尾上丑之助がいる尾上菊五郎家(音羽屋)です。
松本幸四郎家は八代目・市川染五郎が継いでいくことになるので、将来染五郎に男の子が何人か生まれてその子達が役者になれば中村吉右衛門の名を襲名する可能性はあります。尾上菊五郎家は丑之助が継ぐので、こちらも将来丑之助に男の子が何人か生まれれば可能性はありますが、いずれもまだ何十年も先のことになるでしょう。
他には、吉右衛門と同じ播磨屋の中から三代目吉右衛門を襲名する役者が出てくる可能性もないとは言えませんが、初代と二代目の吉右衛門があまりにも偉大だったので、三代目を名乗るのはかなりハードルが高いと言えます。
このまま誰も襲名しない「止め名」になってしまうことも考えられますが、できれば「秀山祭」を続けていく中で、「三代目吉右衛門」を名乗るのにふさわしい役者が出てきてほしいものですね。
松本幸四郎家、尾上菊五郎家について詳しくは以下の記事を御覧ください。
秀山祭の開催情報
例年、9月に歌舞伎座で開催される「秀山祭」ですが、その開催情報を紹介します。
2024年9月歌舞伎座
令和6年(2024)9月の歌舞伎座で開催される秀山祭では、二代目中村吉右衛門が「80歳で勧進帳の弁慶を演じるのが夢」と語っていたことにちなみ、「二代目播磨屋八十路の夢」と副題がついた勧進帳が上演されます。弁慶を二代目の甥である松本幸四郎、富樫を娘婿の尾上菊之助、義経を又甥(甥の子供)である市川染五郎が勤めます。
まとめ:秀山祭は二人の吉右衛門を顕彰するお祭り
初代・中村吉右衛門を顕彰するために始まった秀山祭ですが、今では二代目・中村吉右衛門もともに顕彰し、その芸を忘れずに後世に伝えて行くというものにもなっています。
これからも長く続いて行く中で、初代と二代目が得意とした演目を、その演技だけでなく芸に対する心構えをも後世の役者に受け継いでもらい、いつの日か三代目・中村吉右衛門が現れるのを期待したいですね。
秀山祭に関する参考資料
「秀山祭」の記事に関する内容は、主に以下の資料やウェブサイトを参考にさせていただきました。
【書籍】
「完本 中村吉右衛門」
「『古典の男たち』 クロワッサンspecial特別編集」
「かぶき手帖 2023」
「秀山祭九月大歌舞伎 筋書(2022,2023)」
【ウェブサイト】
「歌舞伎オンザウェブ」
「歌舞伎美人」
「歌舞伎用語案内」
「Wikipedia」
【テレビ】
「古典芸能への招待 中村吉右衛門の至芸・熊谷陣屋ほか」(NHK Eテレ 2022年1月30日放送)