團菊祭とは?市川團十郎×尾上菊五郎が織りなす歌舞伎の伝統行事を徹底解説!

團菊祭とは?市川團十郎×尾上菊五郎が織りなす歌舞伎の伝統行事を徹底解説!

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例年五月、歌舞伎座で開かれる『團菊祭(だんきくさい)』。
実はこれ、歌舞伎ファンにとってはおなじみの大イベントですが、初心者の方には『團菊祭って何?』とピンとこないかもしれません。

この記事では、そんな“團菊祭”とは何なのかを、初めての人にもわかりやすく解説!
さらに、團菊祭にまつわる歴史や、これまでの歩みについてもたっぷり紹介していきます。


團菊祭とは、九代目團十郎と五代目菊五郎を讃える特別な祭典!

團菊祭の「團」「菊」とは、それぞれ九代目・市川團十郎いちかわだんじゅうろう五代目・尾上菊五郎おのえきくごろうのことを指します。

すなわち、團菊祭とは明治時代に絶大な人気を誇り近代歌舞伎の確立に貢献した二人の名優、九代目・團十郎と五代目・菊五郎の功績を称えるために、昭和11年(1936)から歌舞伎座の五月大歌舞伎に付けられてきた特別な公演の名称です。

なお、毎年必ず五月の歌舞伎座公演が「團菊祭」と呼ばれていたわけではありませんが、今ではすっかり初夏の歌舞伎座の風物詩として親しまれるようになりました。

そして團菊祭のときは、当代の團十郎・菊五郎をはじめ、市川家や尾上家の役者がメインで出演し、両家の得意とする演目が上演されるのが常となっています。

では、この「團菊祭」の由来となった、九代目・團十郎と五代目・菊五郎とは、いったいどんな役者だったのでしょうか?

劇聖と呼ばれた九代目・市川團十郎

九代目市川團十郎の像

九代目市川團十郎の像

九代目・市川團十郎(屋号・成田屋)は、七代目・團十郎の五番目の男子ですが、生まれてまもなく河原崎座の座元である河原崎権之助の養子となります。幼い時から養父である権之助に厳しく芸を叩き込まれますが、八代目團十郎が早世してから市川家に戻ることになり、明治7年(1874)に37歳で九代目・市川團十郎を襲名します。

若いときは「大根役者」と呼ばれるほど芸が下手だったのですが、地道な努力で徐々に人気役者の地位を獲得していくのです。

時代が江戸から明治になり、歌舞伎にも西洋の演劇を取り入れた演劇改良運動が起こると、團十郎は積極的にこの運動に取組み、それまでの荒唐無稽な時代考証だった歌舞伎の芝居を、より歴史的事実に近い形で演じる活歴(かつれき)と呼ばれる芝居を演じました。しかし、これはあまり当時の歌舞伎ファンには受け入れられず、再び古典歌舞伎へと戻っていくことになります。

明治20年(1887)には天皇陛下の前でいわゆる天覧歌舞伎を五代目・菊五郎らと行い、歌舞伎役者の社会的地位を高めることに大いに貢献します。

現代行われている演目、特に時代物は九代目・團十郎の影響を受けているものが多いことから、近代歌舞伎の祖とも言われています。肚芸(はらげい)と呼ばれる、動作やセリフに出さずに心理描写を表現する演技を生み出したのも九代目團十郎です。

特に有名な役どころは「勧進帳」の弁慶で、当時は「九代目といえば勧進帳」と言われたそうです。現在、劇聖と称される唯一の役者でもあります。

歴代の市川團十郎家の家系図は、以下の記事を御覧ください。

リアルを追求した五代目・尾上菊五郎

五代目尾上菊五郎の像

五代目尾上菊五郎の像

五代目・尾上菊五郎(屋号・音羽屋)は天保15年(1844)市村座の座元である十二代・市村羽左衛門いちむらうざえもんの次男として生まれました。母は、三代目・菊五郎の娘で「とは」という名の女性。八歳で十三代目・市村羽左衛門の名跡と市村座の座元の地位を継ぎますが、明治元年に弟に座元を譲り、自分は母方の祖父の名である五代目・尾上菊五郎を襲名します。

出世作となったのは、14歳のときに演じた「鼠小紋東君新形ねずみこもんはるのしんがた」(通称・鼠小僧)の三吉役でした。また、五代目・菊五郎のために書かれた「青砥稿花紅彩画あおとぞうしはなのにしきえ」(通称・白浪五人男)の弁天小僧菊之助では、そのエロティックな姿が当時の歌舞伎ファンに熱狂的に受け入れられました。

九代目・團十郎が時代物を得意としていたのに対して、五代目・菊五郎は世話物に定評がありました。江戸や明治の風俗を写実的に表現することにこだわりがあり、そのリアルな演技術は菊五郎家のお家芸として代々受け継がれていくことになります。

五代目の“凝り性”を物語るエピソードとしては、舞台で使用する橋を実在の橋の寸法や橋桁の数まで調べて、本物そっくりに再現したことや、病人の演技を研究しようと、実際に病気で寝込んでいた人物のもとを訪ねたものの、不躾な行動として追い返されてしまった、という逸話も残されています。

また、中風ちゅうぶ(注:現在でいう脳卒中の一種)の発作で倒れた際、医者は馬車での帰宅を勧めましたが、五代目は「音羽屋の家の芸だ、戸板に乗せて運んでくれ」と言ったと伝えられています。これは、『四谷怪談』で戸板が使われることにちなむ、とっさの機転だったとされ、逸話として語り継がれています。

戸板に乗せられ運ばれる五代目・菊五郎

代表作には、前述の弁天小僧のほか、『神明恵和合取組かみのめぐみわごうのとりくみ』(通称:め組の喧嘩)の辰五郎、『梅雨小袖昔八丈つゆこそでむかしはちじょう』(通称:髪結新三)の新三、『新皿屋舗月雨暈しんさらやしき つきのあまがさ』(通称:魚屋宗五郎)の宗五郎などが挙げられます。

九代目・團十郎と五代目・菊五郎の関係は?

天覧歌舞伎でともに演じた二人は、九代目・團十郎五代目・菊五郎より6歳年上でしたが、よきライバルとして互いに認め合っていました。團菊が揃って出演する芝居はいつも大好評で、入場料も他の芝居より高くなったほどです。まさに團菊が明治の歌舞伎を牽引していたのです。

プライベートではお互いの本名である「堀越(團十郎)」「寺島(菊五郎)」と呼び合う仲で、菊五郎は、自身の息子・うしのすけ(後の六代目・菊五郎)を團十郎に、「いい役者にしてくれ」と稽古をつけることを頼み、團十郎もそれを受け入れるほど、互いの信頼は深かったのです。

菊五郎は團十郎よりも先に亡くなりましたが、その際、團十郎はすぐに菊五郎の息子たちの襲名に関する段取りを整え、翌月には六代目・菊五郎の襲名披露公演で後見人として口上を述べています。

九代目・團十郎にとって六代目・菊五郎は、かつて自らが面倒を見ていた息子のような存在でした。19歳の新しい菊五郎にとっても、父を亡くして不安の中で襲名を迎える時期に、團十郎の後押しによって襲名披露を実現することができたのです

歴代の尾上菊五郎家の家系図については、以下の記事をご覧ください。

團菊の面影、今も歌舞伎座に――胸像と祭の記憶

歌舞伎座一階ロビーに移された團菊の胸像

歌舞伎座一階ロビーに移された團菊の胸像

歌舞伎座に設置されている團菊の胸像は、二人が亡くなってから33年後にあたる昭和11年(1936)に設置され、それを記念して團菊祭が始まりました。

この胸像は彫刻家・朝倉文夫の手によって制作されましたが、大東亜戦争中に軍へ供出され、團菊祭も一時中断されることになります。

しかし、終戦後の昭和22年(1947)東劇團菊祭が復活。
続いて昭和33・34年(1958・1959)には歌舞伎座でも上演されました。
その後再び中断されていましたが、昭和52年(1977)に再び復活。
さらに翌年の昭和53年(1978)には、團菊の胸像も復元されました。

その後は5月の恒例行事として定着し、昭和61年(1986)にはイギリスのチャールズ3世(当時:皇太子)とダイアナ妃が観劇
さらに平成15年(2003)には「歌舞伎400年・團菊没後100年」を記念した團菊祭が催され、天皇・皇后(現:上皇・上皇后)両陛下がご観劇になりました。

團菊の胸像は、ふだんは歌舞伎座の二階に設置されていますが、團菊祭の期間だけ一階ロビーへ移されます。そして当時の面影そのままに、歌舞伎を観に来たファンをあたたかく迎えてくれますよ。



團菊祭の今…新たな時代の“團菊”に刮目せよ!

5月の歌舞伎座では、例年《團菊祭五月大歌舞伎》と銘打たれた公演が行われるのが通例です。

令和2年(2020)には、十一代目・市川海老蔵が十三代目・市川團十郎白猿を襲名する、「襲名披露公演」として盛大に開催される予定でした。

しかし、新型コロナウイルスの感染拡大により襲名披露公演は延期となり、團菊祭も開催されないままとなってしまいます。
そして令和4年(2022)5月、三年ぶり團菊祭が歌舞伎座で開催されたのです。

このときの團菊祭では、市川團十郎白猿の襲名披露公演は行われませんでしたが、團十郎家の『暫(しばらく)』、菊五郎家の『土蜘(つちぐも)』という、それぞれの家の”お家芸”が上演されています。

令和5年(2023)の團菊祭では、尾上菊五郎の孫にあたる尾上眞秀おのえまほろが初舞台を踏み、令和6年(2024)の團菊祭では、四代目・市川左團次いちかわさだんじの追善狂言も上演され、團十郎が後見を務めるという、珍しい姿も見られました。

再び、歌舞伎座五月の風物詩として、團菊祭が定着しつつありますね。

團菊祭は團十郎家・菊五郎家の襲名披露の場

長らく延期されていた十三代目・市川團十郎白猿の襲名披露公演は、令和4年(2022)11月・12月にようやく開催され、十二代目・團十郎が2013年に亡くなって以来、空席となっていた大名跡が久々に復活するという、歌舞伎界の一大イベントとなりました。

この公演は5月ではなかったため「團菊祭」とは銘打たれませんでしたが、今回は十三代目・團十郎の息子・勸玄(かんげん)くんも、八代目・市川新之助を襲名するダブル襲名となり、その後も襲名披露公演は各地の大劇場や巡業をまわり、全国が祝賀ムードに包まれました。

近年の《團菊祭五月大歌舞伎》では、市川團十郎家尾上菊五郎家の襲名披露や初お目見得が行われることが多く、團菊祭が“名跡継承の舞台”として重要な意味を持つようになっています。

ちなみに、それぞれの家の名跡は出世魚のように変わっていくスタイルです。

【團十郎家】新之助 → 海老蔵 → 團十郎
【菊五郎家】丑之助 → 菊之助 → 菊五郎

近年の《團菊祭五月大歌舞伎》で行われた主な襲名披露・初舞台・初お目見得は以下のとおりです。

※スマホでは横スクロールでご覧ください

元号 西暦 襲名・初舞台 内容
令和5 2023 初代・尾上眞秀 初舞台
令和元 2019 七代目・尾上丑之助 襲名披露・初舞台
平成28 2016 寺嶋和史(現・丑之助) 初お目見得
平成16 2004 十一代目・市川海老蔵 襲名披露
平成8 1996 五代目・尾上菊之助 襲名披露
昭和60 1985 十二代目・市川團十郎/七代目・市川新之助 襲名披露(ダブル)
昭和58 1983 堀越孝俊(現・海老蔵) 初お目見得
昭和40 1965 四代目・尾上菊之助 襲名披露
昭和33 1958 六代目・市川新之助 襲名披露

令和の時代に“團菊”という大名跡の襲名が続く

襲名披露も歌舞伎の大きな魅力の一つです。特に大名跡の襲名時には「口上」にも熱が入り、それ自体が一つの演目といえるほどの存在感を放ちます。

令和4年(2022)に行われた、十三代目・市川團十郎八代目・市川新之助の襲名披露では、親子による並び立つ口上が披露され、それぞれが新たな名跡を受け継ぐ覚悟今後の抱負を述べました。

また、口上に立った幹部俳優たちからは、先代・團十郎にまつわる思い出も語られ、大名跡の復活を祝うとともに、未来への期待感が高まる内容となりました。

こうした大きな襲名披露の口上を目にする機会は稀であり、このときの観客はまさに幸運だったと言えるでしょう。

そして團十郎襲名から3年も経たずに、今度は菊五郎の襲名披露が行われることになりました。

令和7年(2025)の《團菊祭五月大歌舞伎》では、八代目・尾上菊五郎および六代目・尾上菊之助による襲名披露が、2か月にわたって行われる予定です。これは團十郎襲名のときと同じ形式となっています。

ところが今回は、過去の襲名とは異なる特筆すべき出来事がありました。
それは、八代目が“菊五郎”を襲名したにも関わらず、七代目もそのまま“菊五郎”を名乗って舞台に立ち続けるという点です。

つまり、2025年の團菊祭では「七代目・八代目、2人の菊五郎が同時に存在する」という、歌舞伎界において前例のない「ダブル菊五郎」という状況が生まれるのです。

この件について、七代目・尾上菊五郎は会見で次のように語っています。

52年間名のらせていただいた七代目菊五郎のまま、歌舞伎人生の幕を閉じたい。それまで一所懸命、勤めてまいりたいと思います。歌舞伎美人より

また、舞台上での呼び分けについても、

菊五郎同士が舞台で共演した際は、七代目、八代目と呼んでいただきたいと思います。歌舞伎美人より

と明言しており、名跡の継承と敬意の両立を大切にしている姿勢が伝わってきます。

團菊祭は、かつての“傳統の継承と共演の場”から、新たな世代へ名跡をつなぐ祭事としての役割をより一層強めているのです。



團菊祭の公演情報

團菊祭の公演情報をお知らせします。

歌舞伎座 「團菊祭五月大歌舞伎」

2025年5月、歌舞伎座で開催される團菊祭五月大歌舞伎では、八代目・尾上菊五郎六代目・尾上菊之助ダブル襲名披露が大きな話題となっています。市川團十郎をはじめとする実力派が顔を揃えるなか、尾上家の新たな世代交代を高らかに告げる舞台が展開され、團菊祭の名にふさわしい華やかな興行となっています。

公演の詳細は、

▶▶ 歌舞伎美人(外部サイト)「2025年5月 歌舞伎座 團菊祭五月大歌舞伎」公演情報 🔗

をご覧ください。

「團菊爺(だんきくじじい)」って何?

團菊爺

九代目・市川團十郎五代目・尾上菊五郎を語るとき、欠かせない存在として知られるのが「團菊爺だんきくじじい」です。

これは、九代目・團十郎と五代目・菊五郎の名演技を実際に見た年配の人々が、「今の役者はまだまだ團菊には及ばない」と語る姿を、やや揶揄を込めて呼んだ表現です。

いわゆる「昔は良かった」という懐古的な見方の、歌舞伎版といえるでしょう。

その中でも特に知られる存在に、評論家の遠藤為春えんどういしゅんがいます。著書『歌舞伎座を彩った名優たち』では、團菊の細やかな演技を高く評価しており、明治期の舞台を知る上で貴重な記録となっています。

ただし、幼いころに観た團菊の記憶があまりにも美化されていたため、それが彼自身の歌舞伎観を強く形作ってしまった側面もあるようです。

現代では「推し」という言葉で好きな役者を応援する文化がありますが、歌舞伎ファンも熱中するあまり「やっぱり自分の推しが一番!」と言い張る、現代の“〇〇爺”(たとえば「染五郎爺」や「團子爺」など…?)が、これからも登場してくるのかもしれませんね。

まとめ:團菊祭には歌舞伎の伝統が流れている!

歌舞伎座の五月の風物詩である「團菊祭」について紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?

團菊祭とは、九代目・市川團十郎と五代目・尾上菊五郎という、近代歌舞伎の発展に大きな足跡を残した二人の名優を称えるために始まった特別な公演です。

今でも歌舞伎座には二人の胸像が設置され、「團菊祭」という名前で公演が続けられていること自体が、彼らの功績の偉大さを物語っています。

そしてこの團菊祭は、ただ過去を讃えるだけでなく、團十郎や菊五郎という名跡を受け継ぐ現代の役者たちが、襲名や初お目見得などを通して舞台に立ち、歌舞伎の伝統を新しい時代へとつないでいく――そんな「継承の舞台」にもなっています。

2025年の團菊祭では、八代目・菊五郎の襲名披露が行われ、十三代目・團十郎とともに、新たな“團菊の時代”が幕を開けます。

日本を代表する伝統芸能・歌舞伎の一大イベントである團菊祭。
普段あまり歌舞伎に親しみのない方も、この機会にぜひ注目してみてはいかがでしょうか。

そして、かつての「團菊爺」のように――
あなたもぜひ、自分だけの“推し”役者をみつけてみてはいかがでしょうか?

参考資料


▶▶ 歌舞伎美人「2025年5月 襲名披露」公式情報


▶▶ 團菊祭五月大歌舞伎筋書 令和六年五月

※本記事の制作について
一部AIを用いたライティング・画像編集支援を行っていますが、最終的な編集・事実確認・表現調整はすべて人の手で行っております

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