十三代目市川團十郎白猿とは?歌舞伎の襲名披露公演にかける海老蔵の覚悟!
現在の歌舞伎役者でもっとも有名で人気のある十一代目市川海老蔵(屋号・成田屋)が、十三代目市川團十郎白猿の名前を受け継ぐ襲名披露公演は、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で延期されていましたが、令和4年(2022)11月,12月に開催されることになりました。
市川團十郎という名は、歌舞伎界一の大名跡であり、唯一「宗家」と呼ばれるほどの格の高い家系なので、これまで襲名披露公演は歌舞伎界の一大イベントとして、日本全国で大きな話題になってきました。
しかし、今回は歴代の團十郎襲名と違い、市川團十郎の後に「白猿」という文字がつけられています。この白猿とはいったいどんな意味があるのでしょうか?
この記事では、白猿という文字が何を意味するのかだけでなく、あえて白猿を付けて襲名披露に臨む海老蔵の真意や覚悟を探ってみたいと思います。
目 次
十三代目市川團十郎「白猿」に込められた意味
「白猿」について説明する前に、まず、市川團十郎という歌舞伎役者の名跡(芸名)について簡単に説明します。
市川團十郎という名跡は、江戸歌舞伎の特徴である荒々しい演技の「荒事」を創始した、初代市川團十郎(1660~1704)から始まる歴史のある名跡です。
歴代の市川團十郎は、早世した三代目と六代目、死後に名跡を追贈された十代目以外は、それぞれの時代における歌舞伎界の中心的存在として活躍し、市川團十郎家は歌舞伎界で唯一「宗家」と呼ばれるほど格の高い家柄になっています。
現在、市川團十郎家の名跡は出世魚のようにステップアップしていく形になっています。最初に市川新之助、次に市川海老蔵、そして市川團十郎というふうに格が上がっていくのです。
「市川團十郎」の名跡は、海老蔵の父である十二代目團十郎が平成25年(2013年)に病気で亡くなってから、7年間空白になっていましたが、令和2年(2020年)5月に十一代目市川海老蔵が晴れて襲名する予定になっています。(※現在は襲名披露公演は延期)
「白猿」とは市川家の俳名の一つ
従来の襲名は、「〇〇代目市川團十郎」だけですが、この度の十三代目襲名にはなぜか最後に、「白猿」という文字がついています。
「白猿」とは五代目市川團十郎が、俳句を読むときのペンネームである俳名として名乗っていたものです。
五代目團十郎は風流人であり、狂歌や俳諧にも秀でて当時の江戸の文人たちと交流がありました。團十郎時代は「三升」という俳名を使っていましたが、息子に團十郎を譲って蝦蔵と名乗るようになってから「白猿」と名乗るようになります。
この意味について五代目團十郎は、同じように教養が深く文人との付き合いもあった二代目團十郎が「栢莚」名乗っていたことを受けて、「自分は名人と言われた二代目には及ばないから、猿は人間に毛が三本足りないというところから名人には足りないという意味で白猿とつけた」と洒落を交えた謙遜の意味であると説明しています。
十三代目團十郎を襲名予定の海老蔵も、「私も父や祖父にまだまだ足もとにも及ばぬ、これからもっと精進していこうという気持ちも含め、白猿を俳名として名のることにしました」(2019/1/14)と述べています。
新たに團十郎という大名跡を襲名する海老蔵が、自らを戒め精進することを忘れないようにあえて市川團十郎白猿とつけたということのようです。
歴代の市川團十郎襲名披露公演は歌舞伎界の歴史的出来事
歌舞伎界最大の名跡・市川團十郎家の襲名は、歌舞伎界だけでなく日本社会全体にとっても大きな出来事として話題になり、その経済効果は何億円とも言われるようになりました。
ここでは、戦後になってテレビなどのメディアでも大きく取り上げられてきた市川團十郎家の十一代目團十郎、十二代目團十郎、十一代目海老蔵の襲名当時の様子を紹介します。
「一億円興行」と言われた十一代目團十郎襲名
昭和37年(1962年)4-5月の歌舞伎座で2ヶ月に渡り十一代目市川團十郎襲名披露公演が行われました。
團十郎の名を持つ役者が歌舞伎の舞台に復活するのは、「劇聖」と呼ばれた九代目團十郎が亡くなってから、実に59年ぶりの出来事であり、当時の歌舞伎界で「海老さま」と呼ばれて女性ファンから熱狂的人気のあった美貌役者の十一代目團十郎襲名は、「世紀の大襲名」「一億円の襲名披露」などと日本中で騒がれました。
戦前からの名優が相次いで亡くなり停滞していた歌舞伎界は、この十一代目團十郎の「一億円興行」と呼ばれた襲名公演で大きく息を吹き返したのです。
「30億円興行」となった十二代目團十郎襲名
昭和60年(1985年)4-6月の3ヶ月をかけて、歌舞伎座で十二代目市川團十郎襲名披露公演が、20年間の團十郎の空白を埋めるべく華々しく行われました。これは、十一代目のときより1ヶ月長い異例の3ヶ月公演となり、新聞各社は一斉に「十二代目團十郎誕生」と芸能面ではなく社会面を使って報じたほど、日本中が注目する大きな出来事でした。
襲名披露公演にはベテランから若手までほとんどの歌舞伎役者が出演し、チケットの前売りには徹夜で行列ができ発売から3日で売り切れになるほどの盛況ぶりで、観客動員数は3ヶ月で35万人、興行収入は30億円にも達しました。
当時の皇太子御夫妻(現・上皇、上皇后両陛下御夫妻)や中曽根首相夫妻(当時)など、各界の著名人も観劇するなど、大変なフィーバーぶりを見せましたが、それだけにとどまらず、7-8月には史上初の海外襲名披露公演でアメリカに渡り、大喝采を浴びたのです。その後も日本各地で襲名披露公演は続き、全国に「團十郎ブーム」が広がりました。
「梨園のプリンス」十一代目海老蔵襲名
昭和52年(1977年)に十二代目團十郎の長男として生まれたのが現在の十一代目市川海老蔵です。
歌舞伎界最高の家系に生まれ、将来は團十郎の名跡を受け継ぐことを期待された男の子は梨園(歌舞伎界)のプリンスと呼ばれ、5歳のとき「源氏物語」の春宮役で初お目見得を果たします。7歳で七代目市川新之助を襲名し、初舞台では「外郎売」の貴甘坊役で父・十二代目團十郎が扮する外郎売実は曾我五郎が見守る中、見事に長台詞を言ってのけ喝采を浴びました。
テレビの大河ドラマで主演するなどしながら、新之助の人気はうなぎのぼりに上がっていき、平成16年(2004年)の5-6月の歌舞伎座で十一代目市川海老蔵を襲名します。
海老蔵を襲名するということは、将来十三代目團十郎を襲名するということでもあるので、当然襲名披露公演にも力が入り、歌舞伎座は連日の大入りを記録しました。
しかし、このとき父・十二代目團十郎が白血病という病魔に冒されていることが発覚し、出演予定をキャンセルせざるを得なくなります。
海老蔵にとっては最も頼りにしていた父親が不在の中、襲名披露を行わなければならないという試練を迎えますが、大先輩や仲間たちの協力を得て孤軍奮闘します。
その後、復帰した十二代目團十郎とパリ公演を行い、全国を回った襲名披露公演も盛況に終わり、晴れて十一代目海老蔵としてスタートを切ることができたのです。
パリでの市川海老蔵襲名披露公演の様子はDVDで見ることができます。
歌舞伎役者・市川海老蔵の苦難の歴史
十三代目市川團十郎を襲名することになる歌舞伎役者・十一代目市川海老蔵(本名・堀越孝俊、現・堀越寶世)とはどんな役者なのでしょうか?
華やかな舞台やテレビでの姿だけでなく、たびたびスキャンダルで世間を騒がせることもあり、必ずしも順風満帆ではありませんでした。
ここでは海老蔵がたどってきた、大名跡を受け継ぐ重責や、スターゆえの苦難の歴史について記していきたいと思います。
少年時代
小さなときから歌舞伎界を担うスターとなるべく生まれた孝俊少年は、小学生のときから「歌舞伎役者になったらどうすりゃいいのか? この道でやっていくべきなのか?」と考えていました。
反抗期になると、稽古事に行ったふりをしながらサボっていたり、同年代の四代目猿之助、五代目菊之助、四代目松緑らと歌舞伎に関係なく遊んでいたそうです。
新之助時代
それでもやはり歌舞伎役者の道へと進み、新之助時代には五代目菊之助、四代目松緑(当時・辰之介)と三人で「平成の三之介」と呼ばれて人気を博します。
しかし、ここで新之助だけでなく市川團十郎家は大きな試練を迎えます。
平成10年(1998年)、新之助となって3年目に、市川團十郎家のお家芸である「勧進帳」の弁慶という大役に初めて挑むことになりました。
それまで「勧進帳」の他の役は経験していましたが、主役となる弁慶を初演するということは、想像を絶するプレッシャーがあったようで、なんと「勧進帳」の上演初日の前夜、新之助は家を飛び出してしまうのです。
このときの状況を海老蔵は次のように語っています。
気がついたときには自宅近くの公園で朝を迎えており、役者として終わったと思ったそうです。
父・十二代目團十郎は、息子・新之助が帰ってこなければ自分が代役として舞台に立つ覚悟を決めますが、それは新之助はもう舞台には立たせないということを意味していました。
新之助だけでなく、将来の十三代目團十郎という役者が消えてしまうかもしれない危機でしたが、新之助は帰ってきました。そして、震える足で舞台に立ち、なんとか弁慶を勤めることができたのです。
海老蔵時代
大河ドラマ「武蔵」で主演するなど、歌舞伎以外での活躍でも人気が出ていた新之助は、平成16年(2004年)に十一代目市川海老蔵を襲名することになります。
ところが、このとき父・十二代目團十郎が白血病で入院することになり、海老蔵の襲名披露公演での十二代目團十郎の出演はキャンセルせざるを得なくなってしまうのです。
海老蔵としてのスタートからいきなり、父であり師でもある十二代目團十郎不在の襲名披露という試練に見舞われてしまいますが、その後も海老蔵の人生は大きな試練が続くことになります。
平成22年(2010年)は建て替えられることになった第四期歌舞伎座のさよなら公演が続いていましたが、海老蔵は1月公演の後にフリーアナウンサーの小林麻央との婚約を発表し、3月3日に入籍します。
ヨーロッパ公演や映画の撮影など、公私ともに順調に見えた海老蔵ですが、11月25日に六本木での暴行事件に巻き込まれて顔にケガを負ってしまうのです。海老蔵自身は被害者でしたが、当時のマスコミは、海老蔵が「体調不良」と言って記者会見をキャンセルしたにもかかわらず飲みに行っていたことなどから一斉に非難しました。
その結果、海老蔵は無期限謹慎という処分を受けてしまい、処分が解かれ舞台に復帰するのは翌年の7月まで待つことになります。当時のこの事件の影響は大きく、急上昇していた海老蔵人気も急降下し、歌舞伎界全体も大きな傷を受ける出来事でした。
海老蔵自身は当時の事件をこう振り返ります。
生きることは地獄なのか天国なのかはその人次第だけど、生きる以上避けられない苦労、辛さ、そういうものをどう捉えるのか?結局、全部ひっくるめて生きる喜びなんじゃないのか、という考え方に、あのへんから変わったのかなというのはあります。「阿川佐和子の世界一受けたい授業」より
大きな心境の変化を感じさせますが、これは謹慎が解けた2011年7月に妻・小林麻央との間に生まれた娘・麗禾ちゃんの存在もあったのかもしれません。
しかし、海老蔵はもっともつらい試練を受けなければならなくなってしまいます。
平成25年(2013年)2月3日、白血病のため入退院を繰り返していた十二代目市川團十郎の容態が急変し、帰らぬ人になります。
そして、平成29年(2017年)6月22日に、十二代目團十郎が亡くなった翌月に、まるで生まれ変わりのように長男・勸玄くんをこの世に産み落とした妻の小林麻央が乳がんのため亡くなります。
海老蔵は妻が亡くなった翌日のブログに、
「人生で一番泣いた日です。」
と記しています。
海老蔵が、後ろ盾であり、師匠であり、ときに衝突することがあっても自分の成長を見守り続けてくれた父と、かけがえのない二人の子供を与えてくれた最愛の妻を相次いで失うという悲劇に見舞われてから3年が経ちました。
2022年11・12月に海老蔵は十三代目市川團十郎白猿を襲名し、長男の勸玄くんが八代目市川新之助を襲名します。
多くの苦難を乗り越えて、市川團十郎家という歌舞伎界の大看板を背負って立つことになる二人が、これからどのような役者として生きていくのか注目です。
歴代の市川團十郎について知りたい方は以下の記事をご覧ください。
なぜ「白猿」をつける必要があったのか?
十三代目市川團十郎に「白猿」を付ける理由は、海老蔵が「父や祖父にまだまだ足もとにも及ばぬ、これからもっと精進していこうという気持ち」と述べていることはすでに書きました。
しかし、果たしてそれだけで「市川團十郎」で今まで続いてきた由緒ある名跡を変えるというのはどうなのでしょうか? 自分の俳名を「白猿」にすればいいだけで、あえて名跡にくっつけなくてもいいのではないでしょうか?
筆者は「白猿」をつけたのには他に三つの理由があるからではないかと考えています。海老蔵本人の口から語られていないので、あくまで推測の域を出ませんが、それは、「白猿という名を守る」「團十郎の血筋を守る」「市川宗家としての格を守る」の三つです。
その理由を以下に説明します。
白猿という名を守る覚悟
「白猿」とは五代目團十郎が俳句を詠むときの俳名として使った名前ですが、その孫にあたる七代目團十郎も俳名「白猿」を名乗っており、「團十郎」を自分の息子に譲った後には「市川白猿」と名乗って舞台に出たこともありました。
すなわち海老蔵の中では「白猿」とは市川團十郎家の俳名の一つというだけでなく、名跡としても大切なものだという意識があるのではないでしょうか。もしかすると自分の孫に男の子が何人も生まれたら、その一人に「市川白猿」を名乗らせたいと考えているのかもしれません。
ところが、小谷野敬の著書「猿之助三代」によると、過去に他の家でこの「白猿」を名跡として名乗ろうとした者がいたようなのです。それは二代目市川猿之助(後の初代市川猿翁)です。
もともと猿之助は團十郎の弟子筋であり、その名跡も「白猿」の「猿」から取られてできたものでした。そういうこともあって二代目猿之助は「猿之助」の名跡を譲るとき、自分は「市川白猿」を名乗りたいと十一代目團十郎に打診したようですが断られ、結局は「市川猿翁」を名乗ることになります。
今のところ歌舞伎役者で白猿を名乗ろうとする者が出てくるとは考えにくいですが、将来どうなるかはわかりません。
海老蔵は、自らの名跡にあえて「白猿」とつけることで、この名前は市川團十郎家のものであると宣言したのではないでしょうか。
團十郎の血筋を守る覚悟
海老蔵は父・十二代目團十郎と妻・小林麻央を相次いで亡くしていますが、父親として二人の子どもたち、麗禾ちゃんと勸玄くんを守らなければなりません。
特に将来勸玄くんが歌舞伎役者として独り立ちして「團十郎」を名乗るまでは、自分もそうだったように多くの困難な道が予想されます。
「白猿」を俳名として名乗った五代目團十郎は、息子の六代目團十郎が若くして亡くなるという悲劇に見舞われたときに、次の團十郎を誰に継がせるかという問題に突き当たります。当時は適当な後継者がいなければ門弟の中から選んで名跡と家を継がせるのが常識でした。
このとき五代目團十郎は自らの血筋を後継者として重視し、まだ幼い孫に團十郎という名跡と家を継がせることを決断します。
現在の團十郎家の血筋は十一代目團十郎からつながるものですが、海老蔵は五代目團十郎と同じ「白猿」とつけることで、市川團十郎家は血筋によって受け継がれる家系であると宣言し、勸玄くんにもその血筋に相応しい役者となるように指導する覚悟を決めたのではないでしょうか。
市川宗家の格を守る覚悟
俳名「白猿」を名乗った五代目團十郎が残した家訓に以下のものがあります。
かなり傲慢な内容ですが、歌舞伎界の宗家としてのプライドを感じさせるものです。
そして同じく「白猿」を名乗った七代目團十郎は、市川團十郎家のお家芸「歌舞伎十八番」を制定し、歌舞伎界の宗家としての権威を高めました。
海老蔵もこの二人にならって、現代の歌舞伎役者として誰にも負けない高みを目指し、市川團十郎家の新たなお家芸を創設しようと思ったのではないでしょうか。その結果として、市川宗家の格は更に高まることになるでしょう。
以上の3点については、あくまでも著者の推測によるものですが、市川團十郎家の歴史と市川海老蔵という役者の半生を見ていると、本来つける必要のない「白猿」を市川團十郎という大名跡にあえてつけるのは、「父や祖父に及ばないから精進するため」という理由だけとは思えないのです。
「市川團十郎白猿」の襲名はどうなる?
2021年になっても依然として終息の気配が見えない新型コロナウイルスですが、延期されたままの「市川團十郎白猿」の襲名はいつになるのでしょうか?
襲名について海老蔵本人が、2021年1月9日放送のテレビ番組、「市川海老蔵に、ござりまする」で気になることを言っています。
團十郎を襲名しないかもしれないと海老蔵本人の口から語られるというのは、襲名を待ちわびるファンにとっては驚きの発言ですね!
襲名するもしないも本人次第と言えなくもないですが、歌舞伎も興行である以上、莫大な利益が上がるのが確実な團十郎襲名をやらないというのは、大きな損失であるのも間違いありません。
歌舞伎界全体に関わる大きなイベントでもあり、海老蔵一人で決められる問題ではないし・・・どうなるやらと思っていましたが、2022年11-12月に市川團十郎白猿襲名披露公演が行われることが無事決定しました。
市川團十郎白猿の公演情報
市川團十郎白猿や市川新之助の公演情報を以下に紹介します。
2024年1月 新橋演舞場
2024年1月の新橋演舞場「初春歌舞伎公演」に市川團十郎白猿、市川新之助、市川ぼたんが出演します。
2024年2月 御園座
2024年2月の御園座「二月御園座大歌舞伎」に市川團十郎白猿、市川新之助が出演します。
テレビ 2024年1月3日「成田屋にござりまする」
毎年恒例となっている市川團十郎家のドキュメント「成田屋にござりまする」が1月3日(水)15時から日テレ系で放送されます。
>>成田屋にござりまする▼市川團十郎一家の1年▼長男新之助が反抗期!?▼ハワイ夏休み
まとめ:十三代目市川團十郎白猿襲名披露で歌舞伎は復活する
2022年11・12月に行われることが決まった十三代目市川團十郎白猿の襲名披露公演は、歴代の團十郎襲名が社会現象になるほど大きな話題になったように、歌舞伎界のみならず日本社会全体に大きな影響を与えることになります。
特に、新型コロナウイルスの影響で休演を余儀なくされてきた歌舞伎界にとっては、歌舞伎復活の起死回生の一打となるのは間違いありません。
本来つけなくてもいい「白猿」という文字をつけたのは、五代目團十郎にならった市川海老蔵が「父や祖父に及ばないのでこれからも精進するため」と言っていますが、團十郎という家系の歴史や海老蔵の半生を見ると、もっと深い覚悟が込められているのではないでしょうか?
白猿という名前を守り、團十郎の血筋を守り、市川宗家の格を守るという覚悟が込められているかもしれない、十三代目市川團十郎白猿の襲名披露公演が無事に行われることを心から願うものです。