尾上菊五郎家の家系図から、歌舞伎界屈指の芸能人一家の秘密を解説!

尾上菊五郎家の家系図から、歌舞伎界屈指の芸能人一家の秘密を解説!

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歌舞伎役者・尾上菊五郎おのえきくごろう(屋号:音羽屋)は、江戸時代から続く歌舞伎の名門中の名門。

「宗家」と称される市川團十郎いちかわだんじゅうろうと並んで、歌舞伎の歴史を語るうえで絶対に欠かせない存在です。

團十郎が力強い荒事あらごとで観客を圧倒する一方、菊五郎は粋と人情に満ちた和事わごとで、江戸の情緒と人間味を舞台に刻んできました。

現在は、七代目と八代目の二人の“菊五郎”が同時に舞台に立つという、異例の“ダブル菊五郎体制”が実現。

孫も尾上菊之助おのえきくのすけを襲名。娘で女優の寺島しのぶやその息子・尾上眞秀おのえまほろまで含め、まさに話題性に事欠かない芸能一家です。

2025年からは全国各地で襲名披露公演が行われ、“尾上菊五郎”という名跡に、ふたたび熱い注目が集まっています。

本記事では、代々の歩みを家系図とともにたどりながら、音羽屋という名門がなぜこれほどまでに特別なのか、その魅力と底力を余すところなくお伝えします。



七代目・尾上菊五郎とは? 歌舞伎界を代表する名優

重ね扇が尾上菊五郎家の家紋
現在活躍する七代目・菊五郎は、昭和17年生まれ。祖父は六代目・菊五郎、父は七代目・尾上梅幸おのえばいこうです。

昭和23年(1948)に五代目・尾上丑之助おのえうしのすけとして初舞台を踏み、昭和40年(1965)に四代目・尾上菊之助おのえきくのすけを襲名、昭和48年(1973)に七代目・尾上菊五郎を襲名します。

元々女形(女性の役)を中心に活躍していましたが、菊五郎家の伝統である女形立役(成人男性の役)もこなす、兼ねる役者としての芸を身につけ、現在では立役が中心となっています。

五代目・六代目・菊五郎の当たり役である、青砥稿花紅彩画あおとぞうしはなのにしきえ(白浪五人男)の「弁天小僧」、魚屋宗五郎さかなやそうごろうの「宗五郎」、神明恵和合取組かみのめぐみわごうのとりくみ(め組の喧嘩)の「辰五郎」などを得意とし、世話物での江戸の庶民の味わいを巧みに演じることに定評があります助六由縁江戸桜すけろくゆかりのえどざくらでの「白酒売の親兵衛」のような、やわらかい和事わごとの役も絶妙です。

菊之助時代の昭和40年(1965)に、NHKの大河ドラマ『源義経』で主役の義経を演じると、その美貌から若い女性ファンが急増。それまで歌舞伎に興味がなかった女子高生が菊之助見たさに劇場に詰めかけてきたそうです。

尾上菊之助、市川新之助いちかわしんのすけ(後の十二代目・市川團十郎)、尾上辰之助おのえたつのすけ(初代・追贈三代目・尾上松緑おのえしょうろく)の3人は三之助(さんのすけ)と呼ばれ人気を博し、共演時にはいつもとは違った熱気が劇場を包んだといいます。

菊五郎家の家系図|尾上菊五郎一門をわかりやすく紹介

尾上菊五郎家は歌舞伎界でも市川團十郎家、中村歌右衛門家、松本幸四郎家、坂東三津五郎家などと並んで長い歴史を持った名門です。屋号は音羽屋で家紋は重ね扇に抱き柏となっています。

ここでは、尾上菊五郎家の家系図を、五代目・菊五郎から図解したものを紹介します。

尾上菊五郎家 家系図

※音羽屋の屋号は、尾上菊五郎家から別れた尾上松緑家や坂東彦三郎家も持っていますが、ここでは尾上菊五郎家のみに焦点を当てた家系図となっています。

屋号が同じ「音羽屋」の尾上松也おのえまつや尾上右近おのえうこんの家系図は以下をご覧ください。




妻・富司純子、娘・寺島しのぶも芸能界で活躍

昭和47年(1972)、大河ドラマ『源義経』で共演した女優・藤純子ふじじゅんこ(現・富司純子ふじすみこ)と結婚。当時は人気絶頂の歌舞伎役者と、東映任侠映画のスター女優というビッグカップルで、大きな話題となりました。

富司純子は結婚を機に、女優としての道よりも、梨園りえん(歌舞伎の世界)の妻として夫・菊五郎を支える生き方を選びました。
そして、同年に長女・忍(寺島しのぶ)、昭和52年(1977)には長男・和康かずやす八代目・菊五郎)が誕生。

寺島しのぶは幼い頃、父と同じ歌舞伎役者を志していたものの、女性では歌舞伎役者になれないことを知り、一時期は悩んだといいます。
それでも舞台に立ちたいという思いを貫き、自力で女優としての道を切り開きました
やがて、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞し、世界に認められる実力派女優として高く評価されています。

息子の尾上菊之助は八代目菊五郎に、妻は中村吉右衛門の娘

尾上菊之助と瓔子さんの結婚で音羽屋と播磨屋が姻戚関係に
尾上菊五郎の長男・和康は、6歳で初舞台を踏み、18歳で五代目・尾上菊之助を襲名。2025年5月に47歳で八代目・尾上菊五郎を襲名しました。 端正な顔立ちとおだやかな気質を活かした女形を得意としつつ、立役も確かな芸で演じ分ける実力派で、菊五郎家のみならず歌舞伎界を支える柱となっています。

新作歌舞伎にも意欲的に取り組み、「マハーバーラタ戦記」や「風の谷のナウシカ」、「ファイナルファンタジーX」などを次々と発表し、伝統と現代の橋渡し役としても注目されています。

その妻・瓔子ようこさんは、歌舞伎界屈指の立役として知られた中村吉右衛門の四女。平成25年(2013)に神田明神で挙式し、多くのファンが祝福に駆けつけました。この結婚により、二人の間に後継ぎとなる長男・和史かずふみくん(現・六代目・尾上菊之助)が生まれています。

令和3年(2021)に中村吉右衛門が亡くなり、多くの歌舞伎ファンを悲しませましたが、彼の教えを受けた八代目・菊五郎と、その孫にあたる六代目・菊之助が、吉右衛門の志を受け継いでいくことを期待されています。

八代目・菊五郎は菊之助時代に音羽屋ではあまりやらない「渡海屋・大物浦」の平知盛や「大蔵譚」の大蔵卿を演じるとき、その役を得意とする中村吉右衛門から指導を受けています。播磨屋と姻戚関係になったことは、実際に彼の芸域を広げることにも繋がっているようですね。

八代目・菊五郎とそのお嫁さんである瓔子さんについて詳しくは次の記事も御覧ください。

孫たちも歌舞伎の舞台へ──和史くんと眞秀くんのデビュー

八代目・菊五郎と瓔子さんの長男・和史かずふみくんは、平成25年(2013)に誕生。
2歳のときの初お目見えは、舞台上でなんと人間国宝の祖父ふたり──七代目・菊五郎と中村吉右衛門に挟まれるという、なんとも贅沢な顔ぶれ。
けれど、いきなり大勢の観客の注目を浴びてびっくりしたのか、泣き出してしまい、父・菊之助に抱かれてのお披露目となりました。

それから5年後の2018年3月、芝居『髪結新三かみゆいしんざ』では丁稚・長松の役で本格的に初舞台を踏み、同年6月には祖父・中村吉右衛門との共演も果たします。
そして2019年5月、團菊祭『絵本牛若丸えほんうしわかまる』で牛若丸を演じ、七代目・尾上丑之助を襲名。さらに2025年5月からは、六代目・尾上菊之助を襲名しました。

一方、和史くんより少し早い平成24年(2012)に生まれたのが、女優・寺島しのぶとフランス人のローラン・グナシアさんの長男・眞秀まほろくん。
平成29年(2017)5月の團菊祭で『魚屋宗五郎さかなやそうごろう』の丁稚として初お目見えを果たしました。
その後も2019年3月には『盛綱陣屋もりつなじんや』で小三郎、4月には『実盛物語さねもりものがたり』で太郎吉を演じ、順調に舞台経験を積んでいきます。
そして2023年5月、團菊祭『音菊眞秀若武者おとにきく まことのわかむしゃ』に出演し、初代・尾上眞秀として正式に歌舞伎役者デビューを果たしました。

眞秀くんは、歌舞伎界では異例の“ハーフの歌舞伎役者”としても注目を集めています。

菊五郎家だけでなく、今は亡き中村吉右衛門の血を受け継ぐ六代目・菊之助と、遠い異国の血を受け継ぐ初代・尾上眞秀
このふたりの若き役者が、これからどんな成長を見せていくのか──その未来が楽しみでなりません。

人間国宝・七代目菊五郎のすごさって?

人間国宝とは、正確には「重要無形文化財の保持者として各個認定された人物」のことであり、日本の伝統芸能において特に高い技術を持ち、その技を次の世代に伝えると認められた人物に与えられる称号です。歌舞伎役者の中でこれまで認定されたのはわずか28人だけで、まさに“日本の至宝”とも言える存在です。

七代目・尾上菊五郎は、2003年に人間国宝に認定されました。
そして父・七代目尾上梅幸おのえばいこうも昭和43年(1968)に女形として認定されており、親子二代での快挙となっています。

さらに平成27年(2015)には文化功労者、令和3年(2021)には日本の文化に大きく貢献した人に贈られる文化勲章も受賞。大ベテランとして数々の栄誉を受ける一方、ユーモアと色気も忘れません。

「いつまでも色気を追求し、『モテたいな、褒められたいな』という煩悩を持ちつづけ、役者を勤め続けていきたいです」

(出典:ステージナタリー 2021年10月29日)

そんな姿勢こそ、長く第一線で輝き続けてきた理由なのかもしれません。

市川團十郎との関係とは?「團菊」と呼ばれる理由

歌舞伎役者
尾上菊五郎市川團十郎は、江戸時代から歌舞伎の世界をリードしてきた二大名跡です。両家の歴史的にも深い繋がりを紹介します。

初代・團十郎の名前は元禄6年(1693)に登場しており、初代・菊五郎の享保2年(1717)より先なので團十郎が先輩ということになります。

元々は上方の役者だった初代・菊五郎を江戸歌舞伎へ抜擢したのが二代目・團十郎(当時・海老蔵)です。後に團十郎家の歌舞伎十八番に選ばれる「鳴神なるかみ」を上方で上演した時に、鳴神上人なるかみしょうにん役を二代目・團十郎、女形の雲の絶間姫くものたえまひめ役を初代・菊五郎が演じたのが團菊の最初の共演です。

安永9年、初代・菊五郎が舞台で四代目松本幸四郎まつもとこうしろうと大喧嘩し、なんと刀で斬りかかろうとする騒ぎを起こしたことがありました。その前年には五代目・團十郎が四代目・幸四郎と大喧嘩して当時出演していた市村座を去るということもあったので、幸四郎側に非があったのかもしれません。

怒りの収まらない初代・菊五郎はそのまま京へ帰ろうとしますが、五代目・團十郎が、「俺もあんたの気持ちはよくわかるが、戻るならご見物衆に挨拶するべきだ」ととりなしたので、ようやく収まったそうです。

三代目・菊五郎七代目・團十郎より17歳も年下でしたが、芝居に関しては決して譲らなかったようです。文政2年(1819)、七代目・團十郎がお家芸である「助六由縁江戸桜すけろくゆかりのえどざくら」を演じている時に、三代目・菊五郎は張り合って、同じ内容の「助六曲輪菊すけろくくるわのももよぐさ」を團十郎側に断りなく上演しました。これに七代目・團十郎は「あいつは礼儀を知らねえ」と怒り、その後三年間お互いに共演することを拒否したそうです。

五代目・菊五郎九代目・團十郎は、「團菊だんきく」という言葉を生み出すほどの一時代を築いた名コンビでした。時にライバルであり、時には良き友人という関係であり、二人が共演する芝居はいつも大盛況でした。

印象的なエピソードとしては、五代目・菊五郎が息子(後の六代目・菊五郎)を九代目・團十郎にあずけて芸を仕込んでもらったことと、五代目・菊五郎が亡くなった時に九代目・團十郎が六代目・菊五郎の襲名の後見となって口上を延べたことです。二人の強い信頼と絆を感じさせますね。

現在の七代目・菊五郎は、菊之助時代に三代目・市川新之助(後の十二代目・市川團十郎)と初代・尾上辰之助(追贈・三代目・尾上松緑)を入れた三人で「三之助」と呼ばれて人気を博しました。そしてその息子たちも五代目・菊之助四代目・新之助(現・十三代目・團十郎白猿)、二代目・辰之助(現・四代目・松緑)の三人が「平成の三之助」と呼ばれて新たな歌舞伎ブームを起こしています。

令和4年(2022)11月に十一代目・海老蔵が十三代目・市川團十郎白猿を襲名しました。そして令和7年(2025)5月に菊之助が八代目・尾上菊五郎を襲名することになり、二人が新たな「團菊」時代を築いていくことでしょう。そして同じくらいの年齢の二人の息子も、それぞれ歌舞伎役者として歩み初めています。さらに次の世代の「團菊」がどういう関係になっていくのかも楽しみです。

八代目・菊五郎と姉の寺島しのぶは十三代目・團十郎とは子供の時から幼馴染として育ちました。しのぶは活発でプロレス好きな女の子だったので、團十郎は飛び膝蹴りを食らわせられたことがあるそうです。寺島しのぶの著書にも「弟の友人にジャンピング・ニーパッドを食らわせて鼻血を出させたことを未だに根に持たれている」と、團十郎とは書いていませんが、それらしき内容の記述があります。今後も両家の子どもたちの間で様々なドラマが展開されるのかもしれませんね。




2025年「團菊祭」で八代目菊五郎が襲名披露!

コロナ禍で市川團十郎の襲名披露が延期されたこともあり、新しい菊五郎の襲名も長く時期が見通せないままでしたが、令和7年(2025)5月・6月の歌舞伎座にて、八代目・尾上菊五郎の襲名披露がついに幕を開けました。

近年の大名跡の襲名は、親・子・孫の三代同時に行われるケースも多く(市川猿之助いちかわえんのすけ家、松本幸四郎家、中村時蔵なかむらときぞう家など)、今回も当初は七代目・菊五郎が名跡を譲り、別の名を名乗る形になるのではと予想されていました。

しかしながら、七代目・尾上菊五郎の名跡はそのまま継続し、五代目・菊之助が新たに八代目・尾上菊五郎を襲名するという、これまでにないスタイルの襲名披露となりました。

この襲名について、七代目・菊五郎は次のように語っています。

「52年間名のらせていただいた七代目菊五郎のまま、歌舞伎人生の幕を閉じたい。それまで一所懸命、勤めてまいりたいと思います」

(出典:歌舞伎美人)

「歴代に菊五郎から改名して亡くなった人はおらず、みんな菊五郎で全うしています。だから私も菊五郎のままでいることにしました。」
(出典:令和七年團菊祭五月大歌舞伎筋書き P35)

孫の七代目・丑之助も同時に六代目・尾上菊之助を襲名します。これで舞台上には七代目・菊五郎、八代目・菊五郎、六代目・菊之助に尾上眞秀と、七代目の血統が揃い踏みすることになりますね。

舞台上に新旧の菊五郎、そして新・菊之助が揃い踏みした姿は、まさに歌舞伎の継承を目にする瞬間です。とりわけ今回は、「團菊祭」の舞台においてこれほど印象的な共演が実現したことに、大きな意味があります。

🗞️ 今回ご紹介した「尾上菊五郎・菊之助 親子の襲名披露」については、
Kabukabu最新号(NIKKO MOOK)でも特集が組まれています。

インタビューや襲名記念写真も掲載された保存版の一冊。
興味のある方はぜひチェックしてみてください👇

團十郎と菊五郎のお祭り、「團菊祭」については以下の記事を御覧ください。

歴代の尾上菊五郎ってどんな人?

五代目尾上菊五郎の像

五代目尾上菊五郎の像

江戸時代から続く「尾上菊五郎」という名跡。
歌舞伎の世界では超有名だけど、初代から六代目まで、どんな役者だったのか知っていますか?
ここでは、それぞれの菊五郎がどんな舞台で活躍してきたのか、ざっくりご紹介します!

音羽屋家紋「重ね扇に抱き柏」

初代

初代・尾上菊五郎は、享保2年(1717年)に京都で生まれました。もともと芝居小屋で働いていた父の影響で、幼い頃から歌舞伎の道へ進みます。最初は「若衆方(美少年役)」として舞台に立ち、美しい容姿が評判となり、やがて女形に転向。上方(関西)で人気を集めました。その後、二代目・市川團十郎に誘われて江戸へ。今度は立役(男役)として大活躍します。この出会いをきっかけに、團十郎家と菊五郎家の縁が始まりました。ちなみに、菊五郎が結婚した相手は、初代・坂東彦三郎の娘。そのため、今の「音羽屋(おとわや)」という屋号は、菊五郎家と彦三郎家の両方で使われています。立役と女形を一つの芝居で両方こなした、初めての役者とも言われています。晩年は江戸と上方を行き来しながら活躍し、67歳で大阪で亡くなりました。

音羽屋家紋「重ね扇に抱き柏」

二代目

二代目・尾上菊五郎は、明和6年(1769年)に初代・菊五郎の後妻(大谷広次の娘)との間に生まれ、「丑之助(うしのすけ)」という幼名で育ちました。父の死後に二代目を継ぎましたが、18歳という若さで亡くなり、舞台での大きな活躍は残せませんでした。

音羽屋家紋「重ね扇に抱き柏」

三代目

三代目・尾上菊五郎は、初代・菊五郎の弟子だった尾上松助(初代・尾上松緑)の養子、栄三郎が名乗りました。
もともと二代目・菊之助に子どもがいなかったため、菊五郎の名を継ぐことになります。「俺ってなんていい男なんだ」と本人が言えば、周りも納得するほどの美男子で、女性に大人気。立役、女形、悪役まで何でもこなすオールラウンダーで、とくに怪談物を得意としており、「四谷怪談」のお岩さんは代表作です。性格はちょっと短気で、スポンサーとケンカして江戸の舞台に出られなくなったり、七代目・市川團十郎が「助六」を演じたときに、対抗して自分も助六を演じて怒らせたりと、なかなか豪快な人でした。あの「白浪五人男」で、弁天小僧が言う「祖父さんに似ぬ声色で…」という台詞に出てくる“祖父さん”は、この三代目のことだと言われています。引退した後に舞台が忘れられず、二度も復帰するほど舞台好きでしたが、最期は大阪での公演中に病気になり、江戸へ戻る途中で亡くなりました。享年66歳。

音羽屋家紋「重ね扇に抱き柏」

四代目

三代目・尾上菊五郎には息子が3人いましたが、いずれも早くに亡くなってしまったため、長女の婿だった歌蝶(かちょう)という役者に跡を継がせることになりました。歌蝶は中村歌六の弟子で、その後、芸名を尾上菊枝 → 尾上栄三郎 → 尾上梅幸と変え、三代目の死から4年後に四代目・尾上菊五郎を襲名します。おもに時代物の女形を得意とし、落ち着いた品のある演技が持ち味だったと言われていますが、「菊五郎」という大名跡にふさわしいほどの大きな活躍は残っていません。53歳で亡くなり、なんと妻も同じ日に亡くなったという記録が残っています。

音羽屋家紋「重ね扇に抱き柏」

五代目

五代目・尾上菊五郎は、弘化元年(1844年)、浅草・猿若町で市村座の座元だった十二世・市村羽左衛門の次男として生まれました。
母は三代目・菊五郎の次女だったため、父方も母方も名門というサラブレッドです。6歳で初舞台に立ち、9歳で十三代目・市村羽左衛門として座元を継ぎます。その後、鼠小僧の三吉役で注目を集め、「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)」初演時に演じた弁天小僧が大ヒットとなりました。明治元年に市村座の座元を弟に譲り、五代目・菊五郎を襲名。九代目・市川團十郎とのコンビは「團菊(だんきく)」と呼ばれ、明治歌舞伎の黄金時代を築いたことで知られています。明治天皇の御前で上演された「天覧歌舞伎」にも出演し、当時の注目を集めました。また、團十郎家の「歌舞伎十八番」に対抗し、菊五郎家として「新古演劇十種(しんこえんげきとくしゅ)」という怪談中心の演目をお家芸としてまとめたのも功績のひとつです。明治36年、60歳で亡くなりましたが、その葬儀には4,000人もの人が集まり、その様子はなんと映画にも記録されています。

音羽屋家紋「重ね扇に抱き柏」

六代目

六代目・尾上菊五郎は、明治18年(1885年)に五代目・菊五郎の妾の子として生まれましたが、実子がいなかったため、すぐに本宅で育てられることになります。7歳で「尾上丑之助」を名乗って初舞台を踏み、九代目・市川團十郎とも共演。13歳のときには團十郎に直接舞踊を教わるなど、深い縁がありました。19歳で五代目が亡くなると、團十郎の後見のもとで六代目・菊五郎を襲名します。父・五代目と九代目・團十郎の芸を受け継ぎつつも、自身はリアリズムを追求。型や役柄の研究に力を注ぎ、緻密で自然な演技を得意としました。初代・中村吉右衛門とは名コンビ・好敵手として「菊吉(きくきち)」と並び称されます。さらに、日本俳優学校を創設し、後進の育成にも尽力。昭和24年、63歳で病没しました。なお、歌舞伎の世界で「六代目」とだけ言えば、一般的にはこの六代目・尾上菊五郎を指します。

「新古演劇十種」とは、五代目尾上菊五郎が家の芸として9種まで制定し、六代目菊五郎が最後の一つを加えて完成しました。市川團十郎のお家芸「歌舞伎十八番」に対抗したもので、内容は五代目が選んだ「土蜘」「茨木」「一つ家」「戻橋」「菊慈童」「羽衣」「刑部姫」「羅漢」「古寺の猫」と、六代目が加えた「身替座禅」です。菊五郎得意の怪異談を中心に選ばれているのは、幽霊や妖怪变化などの仕掛け物を家の芸として確立するためでした。ここで「怪談」ではなく「怪異談」と書いたのは、戸板康二著「尾上菊五郎」の記述を参考にさせていただきました。

七代目・尾上菊五郎の舞台を観るなら今

七代目・尾上菊五郎は、2025年で83歳。
今もなお現役で舞台に立ち続ける、名門・音羽屋を代表する名優です。

近年はさすがに体力的に厳しい場面もあるようで、出演の機会は少しずつ減ってきています。
だからこそ、今のうちにできるだけ生の舞台を観ておきたい役者です。

“人間国宝”である七代目・菊五郎の芝居を、ぜひ一度体感してみてください。

以下は、今後予定されている尾上菊五郎家の出演情報です。

2025年10月 御園座「吉例顔見世」

2025年10月は御園座で「吉例顔見世」公演に八代目 尾上菊五郎、尾上菊之助が出演し、名古屋での襲名披露を行います。

2025年11月 歌舞伎座「吉例顔見世大歌舞伎」

2025年11月の歌舞伎座「吉例顔見世大歌舞伎」に七代目 尾上菊五郎が出演します。

尾上菊五郎が見られるDVD

また、劇場に行けない人はDVDで尾上菊五郎を堪能してはいかがでしょうか。


弁天小僧を七代目・尾上菊五郎、日本駄右衛門を市川左團次、南郷力丸を尾上辰之助(現・松緑)、忠信利平を坂東彦三郎(現・楽善)、赤星十三郎を中村時蔵(現・萬壽)が演じるという豪華ラインナップです。

まとめ:菊五郎家の歴史と、次世代へ続く歌舞伎の未来に注目!

七代目・尾上菊五郎は、“江戸の粋”を体現するベテラン歌舞伎役者。人間国宝にも選ばれていて、やわらかさと人情味のある演技が持ち味です。80歳を超えた今でも現役で舞台に立ち、観客を魅了し続けています。

そんな菊五郎の芸は、息子の八代目・菊五郎へ、さらに孫の六代目・菊之助へと受け継がれています。娘で女優の寺島しのぶやその息子・尾上眞秀も舞台に立っていて、家族ぐるみで舞台に立つ姿は、まさに「歌舞伎の一族」です。

歌舞伎界でも、市川團十郎の家と並んで「名門中の名門」とされる菊五郎家。この両家は團菊だんきくと呼ばれて、江戸時代からずっとライバルであり仲間のような存在です。

そしていま、七代目と八代目が同時に存在するという“ダブル菊五郎”体制が実現し、親子三代が舞台に立つことになりました。今しかない特別な尾上菊五郎家の歌舞伎を、ぜひご覧になってくださいね。

歌舞伎についてもっと知りたい方は、以下の記事もご覧ください👇




参考資料

尾上菊五郎の記事に関する内容は、主に以下の資料やウェブサイトを参考にさせていただきました。

【書籍📚】
「令和七年團菊祭五月大歌舞伎 筋書」
「かぶき手帖 2025年版」
「尾上菊五郎」(戸板康二著)
乙女のための歌舞伎手帖

【ウェブサイト🌐】
歌舞伎オンザウェブ
歌舞伎美人
ステージナタリー 2021年10月29日

※本記事の制作について
一部AIを用いたライティング・画像編集支援を行っていますが、最終的な編集・事実確認・表現調整はすべて人の手で行っております

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