歌舞伎十八番とは何か?市川團十郎家の「おはこ」の演目を紹介
歌舞伎十八番という言葉を聞いたことがあっても、その内容までは知らない人も多いのではないでしょうか。
近いうちに十一代目市川海老蔵が十三代目市川團十郎の名跡(芸名)を受け継ぐ襲名披露を行うことになっていますが、歌舞伎十八番とは、その市川團十郎家の「お家芸」といえる18演目のことです。
歌舞伎ファンならばぜひとも知っておきたい演目が多くあるので、ここでは歌舞伎十八番の演目内容や制定された歴史などを紹介します。
また、得意なことを「十八番(おはこ)」というのは、歌舞伎十八番が由来になっているのか?ということも検証してみます。
目 次
歌舞伎十八番とは市川團十郎家のお家芸のこと
歌舞伎十八番とは、歌舞伎界の宗家とも呼ばれる市川團十郎家のお家芸として制定された、以下に示す歌舞伎の18演目のことです。
- 勧進帳(かんじんちょう)
- 助六(すけろく)
- 暫(しばらく)
- 矢の根(やのね)
- 毛抜(けぬき)
- 鳴神(なるかみ)
- 不動(ふどう)
- 外郎売(ういろううり)
- 押戻(おしもどし)
- 景清(かげきよ)
- 解脱(げだつ)
- 不破(ふわ)
- 象引(ぞうひき)
- 七つ面(ななつめん)
- 関羽(かんう)
- 嫐(うわなり)
- 蛇柳(じゃやなぎ)
- 鎌髭(かまひげ)
江戸時代から市川團十郎家は「荒事」と呼ばれる荒々しい演技が特徴で、当時の江戸歌舞伎の中心的存在でした。歌舞伎十八番の演目も、ほとんどが力強い荒事の内容で占められています。
かつては他の家が歌舞伎十八番を演じるのは遠慮していたようですが、明治以降は他の家も演じるようになってきました。しかし今でも歌舞伎十八番を演じるときには、市川團十郎家に挨拶するのがならわしとなっているそうです。
歌舞伎十八番の由来
歌舞伎十八番が制定されたのは江戸時代の天保3年(1832年)の3月に、七代目市川團十郎によって「歌舞妓狂言組十八番」(伎ではなく妓)が発表されたことが起源となっています。
当時から江戸歌舞伎を代表する家系であった市川團十郎家ですが、七代目團十郎はさらに権威を高めたいと考えました。
そこで息子に八代目市川團十郎を襲名させるのに合わせて、市川家が代々得意としてきた17の演目に七代目自らが始めた「勧進帳」を加えた18演目を「歌舞妓狂言組十八番」という名称を付けて世間に公表したのです。
これは市川團十郎家が代々演じてきた荒事の「家の芸」というものを改めて世間に認識させ、はっきりとわかる形で代々受け継がせていきたいという狙いもありました。そしてその狙いは功を奏し、今では「歌舞伎十八番」という名称で市川團十郎家のお家芸として広く知られるようになりました。
十二代目市川團十郎は、「市川宗家が連綿と続いてきたのはなぜかを考えるとき、私は単なる運命ではなく、ほかならぬ歌舞伎十八番の存在に行き当たるのです。」(十二代目市川團十郎著「歌舞伎十八番」より)と言うほど、歌舞伎十八番の存在は市川團十郎家にとって重要なものとなっていきました。
得意なことを「十八番(おはこ)」というのは歌舞伎十八番から?
市川團十郎家にとってなくてはならないお家芸として制定されたのが歌舞伎十八番です。
この18演目は箱に納めて封印され、安易に披露するものではないとされたので、そこから「おはこ」と呼ばれるようになり、後に得意なことを「十八番(おはこ)」と表現するのはこれが起源だという説がありますが、これは間違いです。
この件について演劇評論家の赤坂治績氏は以下のように指摘します。
「おはこ」とは本来は美術品などの鑑定書を、その箱の蓋に貼って本物だと証明していた「箱書付」が略されたものであり、「正しいと認定された」という意味で使われていました。
歌舞伎十八番も市川家のお家芸と認定されたことで「おはこ」と呼ばれていたのが、歌舞伎十八番の人気が高まるにつれて、段々と「十八番」を「おはこ」と呼ぶようになり、意味も「得意芸」というふうに変わっていったのではないでしょうか。
それでは、なぜ「十八」という数なのでしょうか?
それは、当時おめでたいとされる数字が「三、五、七、九、十二、十五、十八」となっており、その中でも「十八」はもっとも数が多いことから特に重要な意味があったようです。
十八演目の中には現代までほとんど演じられることのなかったものもありますが、七代目團十郎が「十八」という縁起のいい数字にこだわったのは、市川家にとって特に大事な演目であり、代々伝えていってほしいという意識があったからでしょう。
歌舞伎界の宗家・市川團十郎家について詳しくは次のページも御覧ください。
歌舞伎十八番の上演数が多い人気演目3選
歌舞伎十八番の演目の中でも特に人気があり、現在まで何度も上演されている演目が「勧進帳」「暫」「助六」です。
ここではその3演目の内容や成立の経緯について解説します。
「勧進帳(かんじんちょう)」〜歌舞伎十八番屈指の名作〜
初演時 | 天保11年(1840年) |
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初演舞台 | 河原崎座 |
初演俳優 | 七代目團十郎 |
源義経一行が兄の頼朝から追われて奥州に落ち延びていくために、山伏の姿に身をやつして、安宅の関所を通るときの出来事を、義経の部下・武蔵坊弁慶を主人公として描かれた作品です。
舞踊劇でありながらその緊迫感のある物語と、六方や見得と呼ばれる歌舞伎の演出が数多く使われる、歌舞伎十八番の屈指の人気作です。
もともとは能の「安宅(あたか)」という演目だったものを歌舞伎に移した演目です。能では弁慶が関所の役人を武力で脅して押し通る内容ですが、歌舞伎では役人が弁慶の忠義の心にうたれて通行を許すという内容に変えられています。
それまで「勧進帳」という名の演目自体は存在しませんでしたが、初代團十郎のときから「弁慶が勧進帳を読んで関所を通る話」自体は存在していました。
七代目團十郎は、「二代目以降途絶えていた狂言(芝居)を復活させた」という趣旨のことを話していますが、実際には四・五代目のときにも「勧進帳」の内容の演目は上演されています。しかし、それをあえて無視して初代・二代目時代の古風の狂言の復活を強調したかったようです。
舞台の背景画に能の舞台を真似た松の木が描かれた、「松羽目」と呼ばれるものを使ったのも「勧進帳」が最初になります。その後、松羽目の背景を使った作品は「松羽目物」と呼ばれるようになりました。
十三代目市川團十郎襲名披露公演の演目でもある「勧進帳」について、もっと詳しくは以下のページをご覧ください。
「暫(しばらく)」〜豪快な荒事の代表作〜
初演時 | 元禄10年(1697年) |
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初演舞台 | 江戸中村座 |
初演俳優 | 初代團十郎 |
鎌倉権五郎という若武者が、悪の権化清原武衡とその手下たちの横暴をやめさせる、明快な勧善懲悪ストーリーです。
主人公・鎌倉権五郎は、五本車鬢とよばれる蟹の足のような髪型、筋隈とよばれる荒々しい隈取顔、重量が60キロとも言われる巨大な衣装に二メートルはあろうかという大太刀を引っさげた異様な出で立ちで観客の度肝を抜きます。
対する敵方の役も、公家荒れという不気味な隈取の清原武衡をはじめ、真っ赤な体で腹を出した赤っ面と呼ばれる手下やナマズのような顔をした鯰坊主など、特徴的なキャラクターにあふれた、単純ながら荒事の見どころに溢れた作品です。
もともとは上演のたびに新しく作られたので、決まった台本というものはなかったのですが、九代目市川團十郎が最後に演じた台本と演出が固定されて、現在の芝居の形になっています。
十三代目市川團十郎襲名披露公演の演目でもある「暫」について、もっと詳しくは以下のページをご覧ください。
「助六」〜江戸一番の色男と艶やかな花魁の共演〜
初演時 | 正徳3年(1713年) |
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初演舞台 | 江戸山村座 |
初演俳優 | 二代目團十郎 |
江戸一番の伊達男・助六(曽我五郎)が華やかな花魁が集う吉原を舞台に、盗まれた刀を捜すために様々な騒動を繰り広げるお話です。
助六の恋人の吉原一の花魁・揚巻を始めとする華やかな女形が立ち並び、蛇の目傘を差して紫ちりめんの鉢巻をした助六がさっそうと登場します。
その派手な演出や洒落っ気に溢れた内容は、江戸っ子が愛してやまず、今でも江戸の「粋」を感じさせる大人気の演目です。
正式には「助六所縁江戸桜」と言いますが、「助六」の略称で親しまれています。
もともとは京都で起きた心中事件が題材ですが、江戸っ子好みの芝居に作り上げたのは二代目市川團十郎です。江戸時代は助六の上演時に役者が吉原や魚河岸に上演の挨拶回りをし、吉原からは傘や煙管、提灯などが贈られ、魚河岸からは下駄と鉢巻が贈られるという習慣がありました。現在でも魚河岸から目録が贈られているそうです。
十三代目市川團十郎襲名披露公演の演目でもある「助六由縁江戸桜」について、もっと詳しくは以下のページをご覧ください。
歌舞伎十八番のかくれた名作
歌舞伎十八番の中で、上演回数や人気では上記の3作品にはおよばないものの、比較的多く上演されて人気もある作品を紹介します。
「外郎売(ういろううり)」
初演時 | 享保3年(1718年) |
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初演舞台 | 江戸森田座 |
初演俳優 | 二代目團十郎 |
小田原の「透頂香(外郎)」という薬を売り歩く行商人が、薬の効能や由来の長々とした台詞をスラスラと早口でよどみなく言い立てるのが有名な芝居です。
二代目團十郎が演じた時に、意地の悪い客が先に言ってしまうということがありましたが、二代目は動じずに長台詞を逆からスラスラと言って見せて観客を驚かせたという逸話が残っています。
近年では1985年に十二代目團十郎と息子の市川新之助(現・十一代目海老蔵 当時7歳)が親子で外郎売を演じ、2019年にはその十一代目海老蔵が息子の勸玄くん(6歳)と親子で演じており、市川家の跡継ぎの通過儀礼の演目になっています。
テレビのワイドショーで、父親の十一代目海老蔵が子供のときに外郎売を演じている映像を見た勸玄くんは「僕のほうがうまい」と言っています。将来どんな役者になっていくのか楽しみですね。
外郎売のもっと詳しい内容を知りたい方は以下のページも御覧ください。
「矢の根(やのね)」
初演時 | 享保5年(1720年) |
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初演舞台 | 江戸森田座 |
初演俳優 | 二代目團十郎 |
父の敵である工藤祐経を討つ機会を狙っていた曾我五郎時致が、正月に大きな鏃(矢の根)を研ぎながら退屈しのぎをしていました。新年の挨拶にもらった宝船の絵を砥石の枕の下に置いて眠っていると、初夢の中に兄の曾我十郎が現れ、宿敵・工藤祐経にとらわれているので助けてくれと訴えます。それを聞いて五郎は馬に飛び乗り、大根を鞭にして兄を助けに向かうのです。
曾我兄弟が出てくる芝居は「曾我物」と呼ばれ、江戸時代には正月に演じるという決まりがありました。「矢の根」で五郎が退屈しのぎにおせち料理を眺めて言う台詞には、中国の故事などに由来する洒落が散りばめられています。現代の観客には何が面白いかわからないかもしれませんが、イヤホンガイドを聞けば台詞の意味も楽しめるでしょう。
「毛抜(けぬき)」
初演時 | 寛保2年(1742年) |
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初演舞台 | 佐渡島長五郎座 |
初演俳優 | 二代目團十郎 |
初演時は「雷神不動北山桜」の一幕だったものを、一つの芝居として上演したものです。七代目團十郎が最後に演じてから長らく上演さていなかったものを、明治42年に二代目市川左團次が復活させて人気になりました。
お家騒動に揺れる小野家の姫・錦の前は文屋豊秀に嫁ぐことになっていましたが、奇病のため婚礼が延期されていました。姫の様子を伺いに文屋の家臣・粂寺弾正がやってきて、小野家の無くなった家宝の短冊を見つけだし、姫の奇病の原因をつきとめ、あげくの果てにお家乗っ取りを企む家老の八剣玄蕃まで成敗してしまいます。
粂寺弾正は頭の切れる頼れる男ですが、若衆や腰元に言い寄っては振られるというお茶目で好色な面も見せます。観客に向かって深々と頭を下げたりと、愛嬌たっぷりの歌舞伎でも一番のユニークなキャラクターです。
毛抜のもっと詳しい内容を知りたい方は以下のページも御覧ください。
「鳴神(なるかみ)」
初演時 | 貞享元年(1684年)(※) |
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初演舞台 | 江戸中村座 |
初演俳優 | 初代團十郎 |
こちらも毛抜同様、初演時は「鳴神不動北山桜」の一幕だったものです。こちらも二代目市川左團次が復活させて人気演目となりました。
高僧として名高い鳴神上人は朝廷に約束を破られたことを恨んで、不思議な力で竜神を封じ込めて雨を降らせないようにしてしまいました。困った朝廷は雲の絶間姫という美女を遣わして色仕掛けで鳴神上人を騙し、竜神を解放して雨を降らせることに成功します。騙されたと知った鳴神上人は怒りのあまり雷に変化して姫を追っていきます。
芝居の前半は、女を知らない鳴神上人を絶間姫が色仕掛けで誘惑する官能的な場面が見どころです。しかし後半は一転して、騙された怒りで雷に化けた鳴神上人が派手な隈取と火焔模様の衣装で、荒事ならではの見得や六方を繰り広げる大荒れの展開に変わります。前半と後半の変わりようは、歌舞伎ならではのおおらかさを感じさせる芝居になっています。
「景清(かげきよ)」
初演時 | 享保17年(1732年) |
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初演舞台 | 江戸中村座 |
初演俳優 | 二代目團十郎 |
「牢破りの景清」という通称で知られる演目です。平家の悪七兵衛景清は源氏に捕らえられますが、堅固な牢屋を力づくで破って脱出するという荒々しい演技が迫力の作品です。
景清が登場する作品は「景清物」と呼ばれ、歌舞伎十八番の中には「景清」「関羽」「解脱」「鎌髭」と4つもあります。恋人や娘への情愛に溢れた実に人間的なキャラクターの景清は、市川家の荒事の中でも需要な位置を占めているようです。
ちなみに”悪”とついているのは悪人だからではなく、”力づよい”という意味合いがあります。
景清のもっと詳しい内容を知りたい方は以下のページも御覧ください。
見れたら奇跡!めったに上演されない歌舞伎十八番の演目
歌舞伎十八番の中には、今ではあまり上演されないものやほとんど記録がないようなもの、一つの芝居ではない演技形態を指すものもあります。
今後上演されるようならぜひともチェックしておいたほうがいい、貴重な演目を簡単に紹介します。
「嫐(うわなり)」
初演時 | 元禄12年(1699年) |
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初演舞台 | 江戸中村座 |
初演俳優 | 初代團十郎 |
台本が残っていないのでもともとの詳しい内容はわからないですが、亡くなった本妻の霊が自分の娘にとりついて、夫が妾といるところに現れ、嫉妬の思いで苦しめる・・・というような、男一人に女二人がからんでくるというような内容です。
江戸時代に上演が途絶えてから昭和11年に五代目市川三升(没後十代目團十郎)に上演されるまで長らく途絶えていましたが、近年は十一代目海老蔵が2015年にシンガポール公演で舞踊劇として復活上演し、その後も自身が企画する全国巡業の「古典への誘い」2019年公演の中で上演されています。
十二代目團十郎はその著書「歌舞伎十八番」の中で、「嫐は上演するとよくないことが起きる縁起の悪い演目なので、先輩方や父からはやってはいけないと言われている。私も復活させるつもりはない」ということを言っていますが、その息子・十一代目海老蔵は復活させました。縁起を担いでやらないのか、それともあえてそこに挑戦していくのかは人それぞれですが、あまり上演されなくなった演目を積極的に復活させようとする姿勢は応援したいものです。
「不破(ふわ)」
初演時 | 延宝8年(1680年) |
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初演舞台 | 江戸市村座 |
初演俳優 | 初代團十郎 |
傾城(遊女)・葛城を取り合う不破伴左衛門と名古屋山三の二人の侍が、すれ違いざまに刀の鞘が当たったことで起こる騒動を描いた作品です。
現在「鞘当」の名で演じられる芝居もほぼ同じ内容ですが、これは江戸時代の歌舞伎作者・鶴屋南北による『浮世柄比翼稲妻』の一場面であり、これを歌舞伎十八番の「不破」とはしません。
その他の歌舞伎十八番の演目
残りの歌舞伎十八番の演目を以下にまとめました。独立した芝居ではなく他の芝居の中で演じられるものもあります。
不動(ふどう) |
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毛抜、鳴神と共に「鳴神不動北山桜」の一場面。主人公が不動明王の姿で登場するだけの神霊事。團十郎家の成田山信仰が由来。 |
押戻(おしもどし) |
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不動と同じように芝居ではなく演技形態の一つ。大きな青竹を持った無双の力を持った武者が、悪霊と化した登場人物を花道から舞台中央に押し戻す芸。「鳴神」や「娘道成寺」などで見られる。 |
解脱(げだつ) |
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「景清物」の一つ。娘の姿で登場した景清の怨念が本性を表すお話。大きな釣り鐘を持ち上げる場面が見応えの荒事。 |
象引(ぞうひき) |
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二人の勇者が力比べで象を引き合う、歌舞伎の典型的な手法を見せてくれる芝居。江戸時代に実際に演じられたかどうかは定かではない。2009年に十二代目團十郎が上演。 |
七つ面(ななつめん) |
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台本が残っていない演目。箱に入った7つのお面を使って人物を踊り分ける舞踊劇と伝わっている。 |
関羽(かんう) |
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「景清物」の一つ。景清が三国志の登場人物「張飛」に扮して、「関羽」の姿で登場する畠山重忠と大活躍するお話。 |
蛇柳(じゃやなぎ) |
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丹波の助太郎という愚か者の男の体に、失恋の末に死んだ娘の怨霊が乗り移り、嫉妬に狂う様子を見せる芝居。2018年の「古典への誘い」で十一代目海老蔵によって上演されている。 |
鎌髭(かまひげ) |
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「景清物」の一つ。鍛冶屋に化けた三保谷四郎が、ひげを剃るふりをして景清の首を掻き切ろうとするが、不死身の景清の首は切れないというお話。 |
歌舞伎十八番を十二代目市川團十郎自身が記した貴重な一冊がこちらになります。興味のある方はぜひ御覧ください。
新版 歌舞伎十八番
歌舞伎十八番を定めた七代目團十郎は、新たに新歌舞伎十八番も制定しようとしますが、挫折してしまいます。その息子である九代目團十郎が後をついで、「高時」「大森彦七」「重成諫言」「地震加藤」「酒井の太鼓」「吉備大臣」「伊勢三郎」「鏡獅子」「船弁慶」「紅葉狩」「素襖落」などを制定しますが、その数は18種に限定しないで32種もしくは40種と言われています。
まとめ
歌舞伎十八番の演目を紹介してきましたがいかがでしたでしょうか?
市川團十郎家のお家芸として制定されたものですが、「勧進帳」「暫(しばらく)」「助六」などは歌舞伎界全体にとってなくてはならない人気の演目となっています。
他にも市川團十郎家の跡継ぎとして演じなければならない「外郎売」、一つの芝居の一幕から独立した「毛抜」「鳴神」、曾我物や景清物などシリーズになっている「矢の根」「景清」なども人気があります。
十一代目海老蔵によって、あまり上演されていなかった演目の「嫐(うわなり)」「蛇柳(じゃやなぎ)」が復活上演されるなど、「不破」などの他の歌舞伎十八番の演目も今後の復活上演が期待されます。
「十八番」を「おはこ」と読んで得意芸を表すのは、歌舞伎十八番が語源ではありません。しかし、一般的にそう認識されているのは、江戸時代の歌舞伎人気がいかにすごいものだったかを象徴しているのかもしれませんね。